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presented by 岸和田だんじり祭振興会 

 
 祭狂爺爺がお届けするだんじりコラム。
 祭礼の歴史や、だんじりの彫物などにまつわるよもやま話をお楽しみください。
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2001年6月号

祭狂爺爺のだんじりコラム

岸和田型地車のルーツとは?

茅渟の海原 浜風薫る
  和泉国は岸和田の 五万三千岡部の城下
   自慢するもの数々あれど
     一に上がるはだんじり祭

旧五軒屋町地車 今のだんじりは大変優美華麗で立派なものであるが、最初の起りは長持ちにコマを付けた簡単なもので、岡部三代長泰公が元禄十六年?(1703)に更なる五穀豊穣を願って、この祭礼日だけは城入りを許したことから始まったといわれている(他にも色々修羅説等もあるが)。そして、城入りを許された庶民は殿様を歓ばすため、その上や前で俄や素人相撲などをしたといわれる。その芸事をする舞台が柱が建ち屋根が付いて立派なものとなり、だんじりの基礎が出来上がっていったのではないか、また祭礼ゆえに神様にも楽しんでもらうため舞台の後<見送り部分>(当時はこちらが前かも?)に祭壇を設けたのではないか (それゆえ’だんじり’と呼ぶようになったのか?) 。

五軒屋町 正面土呂幕 また、そこに豪華さをさらに追求して神社にかかわる四神獣や神話、唐獅子などの写真が組み込まれて行ったのではないかと察する。
  その裏には城下町である故、腕の良い大工職人が数多く集められていたことや、町衆(商人)の財力もあったことは否めない。また前の海には田畑の肥料や食料となる鰯や魚など豊富にあって漁師らも活気付いていたことであろう。
  昔から大工は岸和田、左官は貝塚と云われる程腕の良い職人が多く居住し、また見学氏のいわれる「左甚五郎は貝塚の産なり」説を私も支持しているが、堂宮の彫物の起こりは泉州であり、事に近くにも”建てだおれ”といわれた堺の商人の財力、泉佐野の食野家の財力のあったこともあろう。
  ともかく、かつて北町の油屋治兵衛が泉大津よりだんじりを買って来たことも一因として(記録に残ったのがあるのはこれだけなので)、元々岸和田には腕の良い大工、職人が数多くあってかつては城門をくぐるため大屋根の上げ下げのできるからくりもあって(これが油屋治兵衛の買ってきただんじりか?)工夫を凝らして今にいう岸和田型の優美綺麗な彫物のついた立派なだんじりになったのではないでしょうか?ロマンの広がる話ではないですか。

 

泉州岸和田住 祭狂爺爺 記