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presented by 岸和田だんじり祭振興会 

 
 祭狂爺爺がお届けするだんじりコラム。
 祭礼の歴史や、だんじりの彫物などにまつわるよもやま話をお楽しみください。
バックナンバー 2001年度
2001年8月号

祭狂爺爺のだんじりコラム

明治期の地車と工匠たち

゛泉州岸和田城下町 街を彩るだんじり祭
   街に華咲く色とりどりの 各町自慢のだんじりは
      泉州自慢の工匠達の 腕を競いべし力作揃い
  世に岸和田型と呼ばれしを送り出したる
     工匠達が数多住んだる街なりき"

沼町先代地車

 「大工は岸和田 左官は貝塚」と巷間に口伝されたるを前にも紹介しましたが、 江戸時代岸和田城下町下には多数の腕の良い職人が寄せられ、集まり、 堂宮や家の普請に腕をふるったのである。 和泉国(泉州)は昔より工の技の優秀な土地柄でもあり、 そのため江戸時代、日光東照宮の修復を、 岸和田藩が幕府より仰せ付かり多数の工匠が日光へ出向したといわれる。
 東照宮の宮彫師が貝塚岸上家の分家筋であるという記録もあり、その中に 「番匠彫工祖 初代岸上甚五郎左義信」と名前がある。 泉州の工匠達の中でも「左甚五郎は泉州出身である」と語り継がれていることを聞き及びます。

 現在残っているだんじり会館内の、江戸期製作の紙屋町先代地車や 五軒屋町先々代地車、和歌山橋本市東家にある元中町先代地車などと、 明治期の地車を見比べるとやはり変化の跡がうかがえます。

 江戸幕府が崩壊し、明治維新となり徳川幕府を誹謗中傷する題材を管理した封印がとかれると、 彫物の図柄は自由に使えるようになり、太閤さん(大坂方)の題材が堰を切ったように彫り出されるのです。 難波戦記、太閤記などであります。
 現存する明治期製作の地車は表に列記した通りですが、現在にまで残らずに解体されたり、 朽ちていった地車もあったと思われますので、今は現存する地車や口伝えされている範囲で その特徴を見ることと致しましよう。

奈良県大和高田市
大和地車保存会(元北町)
正面腰回り

 江戸期地車の屋根上下のための土呂幕横の止め栓がなくなり、土呂幕が筒柱を覆うようになる 土呂幕上に大連子がのる。
 しかし、泉佐野市上之郷上村地車、熊取町小谷地車、貝塚市名越地車などは 大連子と小連子の位置は逆転している。 が、どの地車から逆転したかは解体された地車もあるので断定できないが、 土呂幕上に大連子がのるものが主である大正期のものは、逆転形式が主となり現在に続いている。 大連子と小連子の位置の逆転は、本来は土呂幕上が連子でありその上に縁葛となる二段式であるが、 その後に豪華さと巨大化によって、連子が大小分かれたものと思われる。
 明治初期頃のものには江戸の名残である半松良形式のものが見られ、 その後土呂幕までかかる松良となる。 大脇が組物を受ける方に柱が立ち脇を取り付ける形式であり、 これは江戸期の流れ踏襲したものであるが、明治中頃より一体化していく。 現在の犬匂欄部は板匂欄が多く、これも中頃より犬匂欄へと推移する。

 これらが明治期地車の特徴であるが、大工仕事に変化の跡が見受けられ、組物も変化に富んだものが多くある。 大工仕事や彫物は、電器機械のない中で、堅い欅を人力で造作し地車を作事することは相当な労力を要したことであろう。 彫物を見ていると、こつこつ彫物が彫られ地車造られていく、明治の職人達の息づかいや姿が思い浮かんでくるようで、 大変心魅かれる地車が沢山あるわけです。

 

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■明治期製作岸和田型地車■


■明治期に活躍した大工・彫物師の紹介■

◎大工


絹井嘉七
屋号<絹屋>
天保六年(1835年)に生まれ、大正二年十月二日歿す。79才。 当時巷間で「絹屋の嘉七っさんか、大平の杢平さん」かと持て囃された名匠

伊勢屋由松 岸和田北町に居住した棟梁。明治十二年の先代北町地車作事の時は弱冠二十二才であったといわれる

高橋若左衛門
<大若>
岸和田市筋海町に居住した棟梁で明治十三年筋海町先々々代地車を作事する

尾崎杢兵衛
<大平>
天保四年(1833年)に生まれ、明治四十一年十一月二十六日歿す。76才。 当時<絹屋>の嘉七さんと双璧をなした名匠。岸和田五軒屋町

大崎吉造
<大駒>
<大駒>名乗る棟梁で詳細は未調査

櫻井義國
<左エ門>
彫物師のところで紹介

大崎平兵衛
<大平>
地車の白眉といわれる元堺町先代地車(現・熊取町野田)地車を作事した棟梁。詳細は未調査

朝代市松
<朝市>
絹井嘉七の弟子。岸和田南町に居住する。
<朝市>型地車は枡合を大きく取り均整のとれた地車を作事する

山内安太郎
<大安>
安政七年(1860年)に生まれ、昭和十一年十月十日歿す。77才。
岸和田中北町に居を構えた

田端辰次郎
<大弥三>
明治元年(1868年)九月十九日生まれ。昭和十八年三月二十四日歿す。
二重見送りは辰次郎が考案細工したといわれる

櫻井新兵衛
<大新>
昭和三年三月八日歿す。岸和田餌差町(現 筋海町)に居住する

奥辰之助
<大源>
岸和田池ノ尻に居住する。詳細は未調査

 

◎彫物師


二代目
高松彦四郎秀延
(=安田卯ノ丸)
先代彦四郎を師匠とする。岸和田山手地区出身といわれ、大工の地車彫物を一手に引き受けたといわれる。 名人気質の人で自ら刻む彫物は少ないといわれる。安田卯ノ丸はこの人であるといわれる

玉井行陽 岸和田市浜町大工棟梁<玉傳>こと玉井信吉の子として 慶応二年(1866)浜町に生まれる。昭和十二年泉北郡忠岡町生帰(現・生ノ町)で歿す。72才。 絹井嘉七の甥、二代目彦四郎の弟子

保田(宇)夘ノ松
(=寺田(宇)夘ノ松
慶応二年(1866)四月七日、中河内若江郡川崎村(東大阪市)福田家に生まれ、大正五年十二月二十二日歿す。 52才。明治十年寺田家の養子となり結婚後保田姓を名乗る

宮地弥津計 江戸末期〜明治にかけて活躍。二代目彦四郎秀延とは兄弟弟子といわれる

櫻井義國 安政二年一月六日忠岡の大工棟梁<左エ門> こと櫻井家 櫻井藤太郎の長男として生まれる。 大正十四年三月二十二日泉大津虫取にて歿す。71才。大工・彫物をこなし「明治甚五郎」といわれた人である

(参考図書) 「大坂・浪花木彫史」 だん吉友の会 発行
「摂河泉だんじり談義(地車工匠編)」 若松均 著

泉州岸和田住 祭狂爺爺 記

 

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