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願泉寺山門 蛙股 和泉嘉右衛門作(岸上一門) |
今回は、“和泉彫(いずみぼり)”のはなしである。
“和泉彫”というと皆さまにはあまり馴染みのある言葉ではないのではあるまいか?
一般に彫刻には木彫をはじめとして石彫・金彫・牙彫(根付)等があり、木彫の中でも細かく仏像・看板・欄間・人形・仏壇・版木・寺社とに分けられる。ここで話すはもちろん木彫のことであり、その中でもとりわけ寺社彫刻<宮彫師(みやぼりし)>のことである。
宮彫師とは安土桃山時代に元々屋型大工であった中から建築を飾る彫物を彫る事を専らの職となす彫物大工が生まれ、これを宮彫師と称したのである。“和泉彫”は泉州に興った宮彫師の流れをいうのであり、泉州の地車に施される彫物はこの宮彫師の技が脈々と受け継がれており、その流れには“堺彫所「彫又」”一門と、今一つ、泉州には貝塚に興った「岸上」一門の流れがある。
ことに泉州貝塚に興った「岸上」一門は江戸と和泉の二つに分かれた由緒ある宮彫師一門なのである。
[番匠]
番匠(ばんじょう)とは、番上の工匠の意であり大工をさしいわゆる建築工事における工匠の長である。ほかに壁大工・瓦大工などがあり、一般に作業する人は小工と呼ばれた。ここにある番匠は建築工事一切を取り仕切る棟梁の意がある。
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江戸の「岸上」(現在は<和泉姓>)一門の由緒書を繙く(ひもとく)と代々の事跡が記されており、その中に番匠彫工祖初代岸上甚五郎左義信(きしのうえじんごろうひだりよしのぶ)・永正元年(1504)三月五日生誕とあり、大和国多武峯十三重塔(やまとこくとうのみねじゅうさんじゅうのとう)・泉州堺妙国寺門・伏見岩清水八幡拝殿を各々建立とあり、下って七代目番匠岸上小右衛門義繁(天正四年<1576年>)は日光東照宮の造営(元和元年<1619>より)を仰せつかり、大工棟梁として腕をふるい、御本社・陽明御門ほか全ての建物の縄張・墨引を手掛け、彫物が間に合わぬため手勢六・七十人すべてが日光に出向き屋型大工はせず彫物1本をして完成をしたという。そして、これにより江戸に居住し出身地の名をとって<和泉>の姓を名乗るようになったという。
また下って九代目和泉忠兵衛義一(いずみちゅうべえよしかず)(寛永十三年<1636>歿)が寛永十一〜十三年に日光東照宮東回廊の修築をなし世に有名なる「眠り猫」と本田胴羽目の寄象嵌(よせぎぞうかん)を作事したといわれる。これらの事跡が皆さま方よくご存知の“左甚五郎(ひだりじんごろう)”のモデルとなったといわれるのであり、古くより泉州では大工棟梁をはじめとして、“左甚五郎”は泉州貝塚の生まれであると口伝されていることも付記するものでもある(参考までにこの由緒書は幕府に提出されたものでもある)。
一方、泉州貝塚に残った「岸上」一門の工匠は代々和泉甚五郎を称し「岸上」直系の工匠は幕を下ろしているものの、今もその技は工匠たちの中に受け継がれている。しかし、記録に残るは貝塚御坊「ボッカンさん」事願泉寺の卜半家文書(ぼくはんけぶんしょ)に見られるだけであり、資料は乏しいものの、願泉寺には「岸上」一門の刻んだ欄間ほかの彫物が残り泉州の各寺院にも彫物が残るのである。だが、昨今、寺院修理に伴い欄間彫刻などには何が何でも金箔が施され彫物のよさを損なっていることは至極残念であり今一度くれぐれも御一考をお願いしたいことである。
さて、高松一門の初代高松彦四郎は幻の彫物師といわれ、泉州貝塚出身にて江戸末期の活躍の人といわれる。貝塚市大北町太鼓台はこの人の彫物であるという。そして二代目高松彦四郎秀延(しゅうえん)事安田卯ノ丸(うのまる)は岸和田山手地区塔原付近の出身といわれ、初代彦四郎一番弟子であり、名門<絹屋>の彫物を一手に請負うも名人気質にて自ら刻んだ彫物は数少ないという。
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| 尊光寺鐘楼 木鼻 玉井行陽作 |
この人の弟子の中に絹屋とともに名門大工棟梁家「玉傳(たまでん)」事玉屋信吉の子で熊吉がおり、絹屋嘉七は甥である熊吉を二代目彦四郎の元へ弟子入りさせ、左目は見えない隻眼なれど熊吉は一人前となり、荒彫においては天下一品であったという。のちの“行陽(ぎょうよう)”名乗るその人である。ほかに重谷喬雲(きょううん)・保田(寺田)夘ノ松(うのまつ)があり、一門の流れには平間勝利・上間(じょうま)庄平・上間貫治・上間敦美・伊藤松吉・金山源兵衛・後藤更星(こうせい)・井岡堪治・与那峯(よなみね)勝正の名師がいる。
また、初代彦四郎の兄弟弟子といわれるのが宮地弥津計(やつけ/やつかず)であり、この人の詳細は不明であるが一門からは二代目宮地弥祐(助)ほか“明治甚五郎”事櫻井義國一門には二代目小川(櫻井)金平・寺田安吉・川島暁星(ぎょうせい)らがいる。そしてまた、関東から来岸した一元林峯(かずもとりんぽう)は義國を師として仰ぎ、林峯からは吉岡義峯(ぎほう)へと、沢山の彫物師が岸和田に集まりその影響、教えを受けたのである。
そして、当時(昭和から大正・昭和初期)数多くの個性豊かな魅力ある彫物が生み出されたのであるが、これらの中から一味違った地車を紹介したいのであるけれど少々長くなったので今回はこれまでとして次回のことと致します。 |