前回の「“和泉彫”と彫物師たちのはなし」の続編として地車の紹介をしたいのであるが、その前に、江戸期製作の地車についていうとその大部分が花岡一門の作であり、岸上一門の名前は全然出てこないのである。この花岡と岸上そして高松とのつながりは未だ判明しておらず詳細は判らないのであるが、明治になって花岡の名前が忽然と姿を消すのは実に不思議であり、高松と花岡の関わり、ひいては岸上一門との関わりは確かにあるように推察できるのである。推測でものを申すのはいけないのであるが、江戸期の地車と高松一門の彫物を皆さん見比べていただきたい、類似した点が発見できると思うのであるが小生だけであろうか?これからの課題である。
さて、推測のはなしはこの辺までとして、地車の紹介とまいりましょう。
■奈良県大和高田市大和地車保存会地車■
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大和高田地車保存会
向かって左土呂幕/天児屋根命 |
先陣切っての登場は、明治十二年岸和田市北町が新調し、現在、奈良県大和高田市大和地車保存会所有の地車である。この地車は、大工棟梁が地元北町の伊勢屋由松、彫物責任者が二代目高松彦四郎秀延である。助としては宮地弥津計・桜井義国等(花岡の手も入っているというが?)である。
特徴としては、前松良が半松良であり下に擬宝珠(ぎぼす)勾欄がつく。見送りには板勾欄、大連子(おおれんじ)が小連子の下となる古い形式である。そして何といっても彫物がいい、土呂幕三方には神話物が掘られ、これを真似て彫られた前所有岸和田市大町新調地車以外に他なく、まことに荘厳な味のある彫物である。
ことに向かって左の「天児屋根命(あめのこやねのみこと)神鏡を持って怪異を顕す」の図柄は珍しくこの二台だけである。この話は近松門左衛門作の人形浄瑠璃『日本振袖始』から取った題材である。三方とも馬乗りがないが見るものを惹きつける見応え十分の彫物であり彫物の力量がうかがえるのである。
■熊取町野田地車■
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| 向かって左松良/勧進帳−弁慶義経打擲す |
二番手は明治二十二年五月六日に岸和田市堺町が新調完成し現在は熊取町野田の地車である。この地車は明治二十二年に手斧始めをされ日数を掛けて作られた地車である。大工棟梁は大崎平衛門、彫物責任者は二代目高松彦四郎事安田卯ノ丸である。助として、相野徳兵衛・保田卯之松等がいる。
この地車の彫は繊細で美しいだけでなく、枡合が上に取り付けられることを考えてか人物が大振りに彫られ迫力があり、されど刻みは頗る(すこぶる)細やかである。この部分の彫師は相野徳兵衛であると思われる。
また松良は土呂幕までつながる現在の型であるが松等受けがない。この松良がよい。安田卯ノ丸作であり顔の表情や見得の切り方、仕草などの彫に気を配り、歌舞伎調であるが地車の彫物に合っていて刻みも細やかで美しい。当時の人から見れば娯楽の歌舞伎は親しみあるものであったであろう。題材も『義経千本桜』『勧進帳』『大江山』であり、『義経千本桜』は岸和田市本町の松良を吉岡義峰氏がこれを手本としているし、『勧進帳』『大江山』もこれを手本として彫刻された地車が多いのである。
そして、土呂幕正面は「楠公父子桜井の驛ノ決別」といわれ、この地車の彫物を手本として彫られたのは現岸和田市堺町地車だけである。堺町地車はほぼ先代の野田地車と同じ題材の彫物なのである。この地車を見に行けば忘れず屋根廻りも拝見して頂きたい。なかなか判りにくいところに凝った細工をしてありますぞ。判りますかな?皆さんご自身の目で見て下さい。
■堺市長承寺地車■
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| 向かって左土呂幕 太平記より |
三番手は岸和田市五軒屋町(明治20〜30年頃?)が新調し、現在堺市鳳の長承寺にある地車である。この地車は地元の富豪《田葉四郎》事宇野氏が金銭を惜しまず、これまた当時、誰もが一目おいたという地元の名大工棟梁《大平》の杢兵衛さん事尾崎杢兵衛氏が腕を振るい宮地弥津計が彫物責任者として花を添えたという地車である。
この地車、《大平》の杢兵衛さんの仕事だけあって処々に凝った細工がなされている。ことに木鼻は普通一つの丸柱に二個別個に彫られて取り付けられるが、ここのは二個一体もので彫られている。また、目には見えないが大脇と半松良が繋がっており組み立てるにはパズルの如くに見送り下をすべてはめ込んでおいて組む一発勝負の難しい仕事である。大工の力量がうかがえるのである。
土呂幕は奥が深く、正面は見送り仕立てで「天成天王寺へ出張(でばり)の場」は唯一ここだけである。また、脇障子の葡萄のイセゴミも珍しく出来が良い(今は傷んで取り替えられているが)。そして前勾欄は板勾欄で彫物が彫られている。
彫物は太平記の統一彫であり『大楠公』『菊水』地車と呼ばれる所以である。彫は細部にわたり丁寧な仕事がしてある。
■貝塚市名越(なごせ)地車■
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| 向かって右土呂幕 本多出雲守忠朝 |
最後にご紹介するのは、明治三十二年(三十一?)八月七日完成で岸和田市大工町が新調し、大正九年頃貝塚市名越に売却された地車である。
この地車は大工棟梁《大弥三》事田端辰次郎師と彫物責任者保田(寺田)卯ノ松師・玉井行陽師等が刻んだ迫力ある彫で、どしっとした男性的な姿見の地車である。また、二重見送り最初の細工、腰組みの大連子と小連子が従来とは上下入れ替わり現在の地車の形式となった最初であろうと思われる地車なのであり《大弥三》苦心の作である。
彫も土呂幕三方迫力があり見応えがる。三方『難波戦記』であり、明治期よく出版された『絵本難波戦記』から題材を取っており、現岸和田市大工町の地車はほぼ同じ題材である。この先代地車を大工町が泣く泣く手放したという気持ちは大変よく分かるのである。
何故手放したのか、ご存知の方もおられることと思うが、大正八年の祭礼本宮の十五日、宮入に地車が横転し二人の尊い命が奪われたからである。地車は祭礼に曳行されるものであり、今も昔も危険がつきものである。楽しい祭をするためにも心して曳行し心に刻みたいところである。紹介したい地車はまだあるがこれくらいとする。
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