今回は岸和田型地車のなりたちについて思いを馳せたいと思う。皆様方は岸和田型地車の姿見をご覧になったとき、何とも美しいという感じがおこるまいか?私は全国津々浦々に沢山のだんじりや屋台・山車がある中で、欲目を含めて岸和田型地車の姿見の美しさは天下一品であると思う。誠に美しい。この地車のなりたちについて今回は話しを進めたいと思うのである。
今、残る文献を繙(ひもとく)と天明五年(1785)に岸和田北町の油屋治兵衛さんが泉大津より古だんじりを借りて曳こうとするも大きすぎて御城の門を通れず、急遽、杉丸太の柱に仕替えて屋根を下げ曳行したといわれ、これが今のだんじりの初めであるという。それまでは城の門をくぐれる簡単なものであったことが推察できるのである。文献にはこれ以前に担いだんじり(かこい檀尻)があったことも記されている。
ところで、だんじり祭の発端は定かではなく、地車は一般に「二尺五寸の車付引檀尻にて太鼓打一人来り云々」とあり、長持ちに車を付けたようなもので、その上で俄芸・神楽や鳴物などをしたのだといわれ、これを城入りして殿様の前で披露したともいわれる。
天明五年までは比較的簡単なものであったといえる。しかし明くる六年、銀三百匁にて北町が地車を新造し、この年より地車新造の願いが見受けられ、祭礼の行事録の文献も記述に多く残るのである。
さて、立派で大きな地車新調に際し、必ずクリアせねばならぬことがある。それは、城門を通らねばならぬこと、いわゆる城入りをするということである(このことは全国の祭の中でも珍しく特異な祭の要素である。)
。この問題をクリアする方法として考案されたのが屋根の上げ下げが容易にできるカラクリ地車の作事であった。岸和田型地車の美しい容姿を決定づけるカギとなる要素である。
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| 彫物を外した腰廻り正面 |
斜めからみた岸和田型地の骨組み |
屋根の上げ下げをさせるため、それまでは土台から屋根までが通り柱であったものを途中で縁を切り丸柱と筒柱とに分けたのである。丸柱はいわゆる四本柱で外から見える柱であり赤引幕のまかれるところである。この柱を上下させるために土台から立つ柱を大きく木取り、土台にどっしりと立て、内側に溝をついて丸柱を立て、ずれぬように下は角のままとし、上は丸められたのである。上が丸められたのは思うに屋根の上下時に少しでも摩擦を柔らげるためであろうと思う。そして筒柱の名称であるが、筒のような丸い柱を上下できる溝のつかれた柱、あるいは丸柱をつつみこむように支える柱ということで付いた名前であると確信する。この筒柱は存在は各地の山車・地車・屋台にはなく岸和田型地車独特である。このことが岸和田型地車の容姿を美しく決定づける根本なのである。
皆様、コーラの瓶をご存知か?この瓶の製作にはこんな話しがある。瓶の姿を女性の美しい姿をイメージして作られたというのである。岸和田型地車もこの容姿と類似する。大阪型・住吉型・堺型などの上地車は土台から上までが通り柱でありズンドウでありくびれがない。しかし岸和田型は丸柱が中に入ったことによりくびれが生じ、柱の外側に向かって沢山の枡が組み上げられ豪華で美しい姿となったのである。その根本が筒柱の存在であり岸和田型の大きな特徴として取り上げられるべきことである。
岸和田型の特徴である筒柱の誕生、それは遠因として城入りがあったことも確かな事実である。皆様方は如何お考えか?地車好者の間で色々と話しのねたになるのも面白いと思うのである。
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