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presented by 岸和田だんじり祭振興会 

 
 祭狂爺爺がお届けするだんじりコラム。
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2003年6月号

祭狂爺爺のだんじりコラム

岸和田旧市の彫物一番紹介 その一

■宮本町地車■

宮本町曳行写真勝っても負けても宮一番

 
  “勝っても負けても宮入一番百姓町” と宮入は常一番の特権を持つ町である。岸和田駅前に位置し一時の賑わいは減ったとはいえ繁華街である。戦前は旧名の通り、まだ田畑の残る町であり、駅からは土生村のお寺の屋根も見えたといわれ、旧地車庫は線路沿いの浜手にあり今は道路となって駅周辺も変化をしている。今はその景色の面影とて見られぬが “岸” といわれた古(いにしえ)より、長い歴史と伝統を持つ岸和田の心の拠り所である岸城神社(千亀利の宮)の氏子総代の町である。

 当町には “岸和田” の地名の由来となった和田氏の末裔が居住し、その邸内には全国にも有名な名建築があり、この建築を町内に居住した加奥久吉師と岸和田南町に居住した田端師が出合で作事したものである。この加奥氏は江戸時代より続く大工棟梁家であり、同じく「大宇」を屋号とし、貝塚市の水間寺を手掛け、古い地車の図面と岸和田藩の鑑札が残る由緒ある村上氏も居住した。
  また、泉州の生んだ名匠の桜井義國の碑に名を連ねる「大喜」事、小川氏も居住した当町は町内の大工が作事した地車が多く、現在曳行の地車は大正10年に加奥久吉棟梁作事、彫物責任者は和泉彫りの流れを汲む上間庄平師の地車である。
  先代地車は大正7年に「大喜」の小川喜兵衛棟梁の作事であり彫物は同じく上間庄平師であり、熊取町は大久保の地車である。そして今も町内には「吉為」事、二代目吉野寿久師が地車に携わっている。
 先々代の地車は岸和田市南上町の地車で大工棟梁は「大平」の尾崎杢兵衛師、彫物責任者は二代目高松彦四郎師といわれる明治12年製作の名地車であり、その前の地車は大工棟梁が不明であるが彫物は花岡一門と彫徳が刻んだといわれる牡丹に唐獅子の地車であったらしい。

 当町の地車土呂幕正面は三世代より受け継ぐ図柄の彫物である。では、図柄の紹介をすることとする。



正面土呂幕 「薄田隼人正兼相徳川本陣討入」

◎「薄田隼人正兼相徳川本陣討入」

 大坂夏之陣に大阪城の命運が尽きんとする慶長廿年(1615)五月六日、大和方面より進撃してくる東軍を向かえ討たんがため、西軍は狭隘(きょうあい)の地、河内国分を目指して進軍し、道明寺において東軍先鋒の水野・伊達勢ら二万三千の軍と激突する。
  小松山に陣を構えた山田幸右衛門(大坂軍記・難波戦記などでは後藤又兵衛の影武者といわれる)は濃霧の中、初めは優勢に戦うも数に優る東軍に追い詰められ討ち死にする。
  ここに譽田山より“朝長” の謡聞こえたりて、「誰ぞ慮外物」と徳川本陣より酒井・片倉勢は鉄砲を撃ちかけれども、薄田隼人正兼、これを物ともせず打ち破り、拾二貫目の刃金巻たる棍棒にて人馬の区別なく打ち殺し、片倉小十郎が陣にて四方八方に暴れ回りて討ち取れば皆悉く(ことごとく)恐れて退くを、終に道明寺の家康本陣めがけて打ちかかる。必死に守る徳川方に薄田勢は銃先の的になって撃たれ、隼人正白帷子に白糸縅の鎧を着したるが敵の血潮に紅に染みわたり朱を塗ったる如くなり。
  主従僅か十一人となった隼人正は再び譽田山に馳せ上り “朝長” を謡い酒宴をなす。ここに酒井・片倉勢押し寄すれば、最早これまでと
「我は勇将薄田隼人正兼相なり、大御所を討たんと思いしに見付けざるこそ口惜しいけれ、土人形同然の奴ばら五百や六百取り巻くとて切り抜けて帰らんこといとやすし。されど、此処に命を落とし一念の悪鬼となりて一々食い殺してくれんず」
と腹十文字に掻き切って明星の如き目にて敵を睨みしありさまは恐ろしける。
と大坂軍記には隼人正の最期を述べている。



泉州岸和田住 祭狂爺爺 記