“勝っても負けても宮入一番百姓町” と宮入は常一番の特権を持つ町である。岸和田駅前に位置し一時の賑わいは減ったとはいえ繁華街である。戦前は旧名の通り、まだ田畑の残る町であり、駅からは土生村のお寺の屋根も見えたといわれ、旧地車庫は線路沿いの浜手にあり今は道路となって駅周辺も変化をしている。今はその景色の面影とて見られぬが
“岸” といわれた古(いにしえ)より、長い歴史と伝統を持つ岸和田の心の拠り所である岸城神社(千亀利の宮)の氏子総代の町である。
当町には “岸和田” の地名の由来となった和田氏の末裔が居住し、その邸内には全国にも有名な名建築があり、この建築を町内に居住した加奥久吉師と岸和田南町に居住した田端師が出合で作事したものである。この加奥氏は江戸時代より続く大工棟梁家であり、同じく「大宇」を屋号とし、貝塚市の水間寺を手掛け、古い地車の図面と岸和田藩の鑑札が残る由緒ある村上氏も居住した。
また、泉州の生んだ名匠の桜井義國の碑に名を連ねる「大喜」事、小川氏も居住した当町は町内の大工が作事した地車が多く、現在曳行の地車は大正10年に加奥久吉棟梁作事、彫物責任者は和泉彫りの流れを汲む上間庄平師の地車である。
先代地車は大正7年に「大喜」の小川喜兵衛棟梁の作事であり彫物は同じく上間庄平師であり、熊取町は大久保の地車である。そして今も町内には「吉為」事、二代目吉野寿久師が地車に携わっている。
先々代の地車は岸和田市南上町の地車で大工棟梁は「大平」の尾崎杢兵衛師、彫物責任者は二代目高松彦四郎師といわれる明治12年製作の名地車であり、その前の地車は大工棟梁が不明であるが彫物は花岡一門と彫徳が刻んだといわれる牡丹に唐獅子の地車であったらしい。
当町の地車土呂幕正面は三世代より受け継ぐ図柄の彫物である。では、図柄の紹介をすることとする。
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