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presented by 岸和田だんじり祭振興会 

 
 祭狂爺爺がお届けするだんじりコラム。
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2003年7月号

祭狂爺爺のだんじりコラム

岸和田旧市の彫物一番紹介 その二

■上町地車■

上町 穀物献ずる宮二番

 
 上町は、今は少なくなったとはいえ、まだ田畑が残り秋ともなれば黄金に実る稲穂が見られる岸城神社に穀物を献じていた町である。当町は岸和田城の山手に位置し、慶長年間、小出秀政が城郭整備のため、当時城内となる土地から百姓衆を今の上町の地に強制疎開させたといわれる歴史がある。しかし、氏神は変わらず、それゆえ宮入は常二番の特権を有する宮二番の町である。
  当町の町名は大正二年よりの名称でかつては小寺・池ノ尻と呼ばれ、それぞれ地車を所有していたのである。池ノ尻には老舗大工棟梁家、「大源」事、奥氏が居住し地元池ノ尻の地車を作事している。大工棟梁 奥辰之助、彫物責任者 宮地弥津計であり、明治三十四・五年頃の新調で現在、貝塚市麻生中地車である。
  そして、小寺の地車は明治十四年、五百三十円で新調され、大工棟梁「大駒」事、大崎吉造、彫物責任者は宮地弥津計であり、現在は堺市菱木白木の地車である。

 昭和四年九月地元の大工棟梁「仁左衛門」事、植山宗一郎・義正兄弟により作事された現在の地車は彫物責任者が名匠、開正藤・開生a父子である。宗一郎氏は「久吾」事、久納久吉師に師事し、地車仕事を習得したのであるが師自身も創意工夫・試行錯誤の苦心の末、世に「植山式地車」と呼ばれる男性的で豪華な見栄え一番の地車を造り出したのある。その出世地車として久吉師後見のもと、地車新調用材三台分を選りすぐり良材を使用して造られたのである。そのため、町民も地車を大切に守り、宗一郎師実弟義正師は兄廃業の後も仕事を辞めずに、これを受け継ぎ見守ってきたのである。今は時代の趨勢により少々地車が傷ついているのは残念である。現在取り付けられている松良は筒井和男師の作品であるが、新調当時のものは開父子が仲良く左右一丁ずつ刻んだ良い作品の松良であった。

 この地車新調時に次のような話しがある。昭和三〜四年に泉州特産の玉葱・チーゼルが大豊作となり町民は思わぬ金を手にしたので昭和の御大典を記念した地車新調の寄付に惜しげもなくこれを出したといわれ、「玉葱とチーゼルのお陰で生まれたようなものです」と当時の新聞記事にある。
  チーゼルといえばラシャの起毛材に使用された植物で大正〜昭和初期にかけ岸和田の繊維産業の盛況ぶりが窺えるのである。現在も町内には植山工務店が地車を製作しているが、昨年、二代目、植山良雄師が六十四歳の若さで逝去されてしまい、親方を失った弟子達であるが、日々技術を研鑚し、技術を伝えるべく頑張っている。
 では、上町地車の彫物一番紹介と参りましょう。



主屋根正面枡合 「天の巖戸開き」

「天の巖戸開き 」

 “日の本は をみななしでは 世も明けぬ国”
と、遠く神話の時代の昔の物語であります。
  高天の原には天照大御神がましまして統治せられていたのでありますが、大御神の弟・素盞鳴尊(スサノオノミコト)はここに昇られて度重なる暴挙をなされ、とうとう大御神は御身を天の巖戸にお隠しになられ、世は闇となり悪事が蔓延ってきたのであります。
  困り果てた八百万の神々は天の安河にお集まりになられ協議をなされまして、思金神(オモイカネ)のお考えによりまして、まず常世長鳴鳥(トコヨノナガナキドリ)を集めて鳴かせ、岩屋の前にて火を焚き、笛や太鼓の楽器が奏すられる中、天宇受売命(アメノウズメ)に派手な踊りを躍らせたのです。その仕草に神々はドウと笑われたので大御神は不思議に思われ、少し巖戸を開けられて
「私が中に居て世は闇である筈なのに、皆はなぜ楽しく笑っているのか」
と天宇受売命に問われましたので
「貴女さまより尊きお方がおわします」
と天宇受売命がこたえられた。
  されば大御神、少し身を乗り出されたので、すかさず八咫鏡(ヤタノカガミ)を差し出した。すると大御神そこに映るお顔を不思議に思われ今少し御身を乗り出されたましたので、ここぞと岩屋の脇に隠れていた力持ちの天手力男(アメノタヂカラオ)神が巖戸を開け御手を取って外へお引き出し申し上げ、天地には再び光が戻ったといわれる我国神話物語でつとに有名なる話しであります。



泉州岸和田住 祭狂爺爺 記