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presented by 岸和田だんじり祭振興会 

 
 祭狂爺爺がお届けするだんじりコラム。
 祭礼の歴史や、だんじりの彫物などにまつわるよもやま話をお楽しみください。
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2004年4月号

祭狂爺爺のだんじりコラム

彫物うんちく四方山ばなし 第四話

 「神武帝東夷征伐と茅渟(ちぬ)の海」

 日の光に輝く海原に白い砂、青々茂る松の樹木、背に聳えるは葛城の風光明媚なる茅渟浦はかつて豊かな海の幸と山の幸の恵みがあったといわれるところである。美しい自然と営みを手放して、便利な生活と無残なる景色を手に入れて幾久しい。泉州は和泉国となるまでは茅渟と呼ばれ、浦わの眼前に広がる海原は茅渟の海として記紀にも登場し、この海でよく獲れた海の幸「黒鯛」は「茅渟鯛」と呼ばれるのである。

  遥か記紀の昔、神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)は九州の日向国より東征に向かわれ、海路数年を経て摂津の国に到着、河内の国より一挙に大和の国に攻め入らんとするも敗退を喫す。そこで、命一行は道をかえ紀伊の国より攻めるべく迂回して海路茅渟の海を航行された。その船上、神日本磐余彦命の兄・五瀬命(イツセノミコト)は戦で負傷した傷をこの海で洗われた。このところより血沼の海=茅渟の海と名付けられたという。
  また、泉南市男里(おのさと)では五瀬命が卑しい者の手にかかり命を落とすとは残念であると、「オオ」と雄たけびを上げ、お亡くなりになられた。このことから呼唹郷→男郷→男里という地名になったといわれ、この地には神日本磐余彦命と五瀬命を祀る延喜式内社男神社がある。地名の真偽のほどはともかくも、古よりロマンを秘めた伝説であり、大切にされたきものである。

 こののち紀伊の国・熊野に上陸された神日本磐余彦命一行は、大和の国をめざして進まれるも山中の険しき道は命一行の進軍を阻み難渋する。そのとき、八咫烏(やたがらす)という天照大御神が使わされたる霊鳥に導かれて無事命一行は大和の国に到着する。

JFA公式エンブレム

 この三本足の八咫烏は熊野那智大社の御しるしのほかJFA(日本サッカー協会)のシンボルマークとして有名である。朝廷では朝賀や即位の礼に紫宸殿に立てられる烏形幢(ウギョウトウ)=銅烏幢(ドウウノトウ)の幢にはこの八咫烏が描かれている。また日輪の中には金烏という三本足の烏が棲むともいわれ、中国の影響があることも否めない。

別所町 纏の頭部

 かわって、地車関係で見ると、岸和田市別所町の纏や幟旗に八咫烏が使われているが、これは、別所町内にはかつて熊野大神を祀る熊野神社があったことに因むものである。現在は沼の天神さんに合祀され神社跡だけが残っている。

 さて話は戻り、大和の国に着いた神日本磐余彦命は大和の頭目長髄彦(ナガスネヒコ)と対戦し、激戦となったその時、金色の鵄(トビ)が飛来して御弓の上弼に止まり、敵はその光に目が眩んで戦意を失い降伏したという。この場面が神武帝東夷征伐としてよく彫刻される場面である。

 この場面は主として枡合に彫刻され、岸和田型によく見られる図柄である。最初にこの図柄が彫刻されたのは大正7年製作の岸和田市南町先代地車(現高石市高磯地車)と思われ、主枡合正面に彫刻されている。
  これを彫刻したのは岸和田浜町出身の「玉傳」事 玉井行陽師であるが、師が眼前の波音をききながら茅渟の海を通ったであろう遥か昔のロマンに思いを馳せながら彫刻されたか否かは今となっては判らない。しかし、地元に関りのある図柄には興味をそそられるのである。
南町地車 主屋根正面桝合
  そして、平成7年新調の岸和田市南町現地車の主枡合正面もこの図柄が受け継がれている。また、大正9年製作の岸和田市大北町地車主枡合正面にも彫られてあって、茅渟の海につながる出船入船の港があった大北町の土地柄を考えると意義深いものではなかろうか。

五軒屋町地車 後屋根正面桝合
 岸和田型地車に彫刻される物語彫刻の中で、神話に題材を求めている部分は概ね枡合部分である。枡合に神話物がよく彫られるのはその形・面積・位置に題材の構成が上手く見合うことと、神話物は心理的にも上の位置にあるのが落ち着くせいなのだと推察する。例外的には岸和田市北町先代地車(現:奈良県大和郡山市郡山地車保存会地車)のように土呂幕三方に配されているぐらいである。
  その神話物の中でとりわけよく彫刻されるのが「天乃巖戸隠れ」「素盞嗚尊大蛇退治」「神武帝東夷征伐」「神功皇后譽田別命平産す」である。とくに「天乃巖戸隠れ」が主枡合正面に配されることが多いのは、日の神にて最高神でもあり、神々の中で最も馴染みが深く話の内容も知られていることと、題材の構成が上手くその位置に見合い収まりがよいことが上げられる。

 
主枡合(正)
製作年
町名
彫物師
大正7年 岸和田市南町先代地車
(現高石市高磯地車)
玉井行陽
大正9年 岸和田市大北町地車 一元林峰
平成3年 岸和田市春木中町地車 木下頼定
平成4年 岸和田市藤井町地車 松田正幸
平成7年 岸和田市南町地車 岸田恭司
平成8年 岸和田市稲葉町西地車 松谷隆司
平成11年 岸和田市三田町地車 野原湛水

主枡合(平)
製作年
町名
彫物師
昭和11年 岸和田市西之内町地車 木下舜次郎
昭和14年 岸和田市福田町地車 木下舜次郎
昭和24年 岸和田市下池田町先代地車 木下舜次郎
昭和26年 岸和田市中之濱町地車 木下舜次郎
昭和28年 岸和田市極楽寺町地車 井尻翠雲
昭和28年 岸和田市上松町地車 木下舜次郎
昭和31年 岸和田市土生町地車 木下舜次郎
昭和31年 岸和田市山下町地車 木下舜次郎
昭和32年 岸和田市中北町地車 木下舜次郎
昭和58年 岸和田市阿間河瀧町地車 松田正幸
昭和61年 岸和田市松風町地車 中山慶春
昭和63年 岸和田市春木戎町地車 木下賢治
昭和63年 岸和田市岡山町東出地車 松田正幸
平成元年 岸和田市西大路町地車 木下賢治
平成5年 岸和田市八幡町地車 近藤晃
平成10年 岸和田市額町地車 木下賢治
平成11年 岸和田市若松町地車 筒井彫刻

後枡合(正)
製作年
町名
彫物師
平成10年 岸和田市五軒屋町地車 岸田恭司

 


神武帝東夷征伐 大和国を平定す

岸和田市南町先代地車 (現高石市高磯地車)
主屋根正面枡合

岸の前なる茅渟の海
    沖行く船の一軍は
     日向国を発ちて数年の
       海路を進む神武軍

 日向国(宮崎県)高千穂に天降られて三代の御子と生まれし五瀬命と、弟・神日本磐余彦命は大和国を平定のため、東へ海路数年を経て、まず浪速(大阪市)の地より上陸し、河内国から一挙に大和国へ攻め入らんとするも、敵の反撃に五瀬命が負傷する。
  そこで一行は進路を変え岸和田の前なる茅渟の海原を通り、途中、五瀬命が命を落すが悲しむ間もなく進軍し、紀伊国(和歌山県)熊野に上陸し大和を目指すも途中、山中道険しく行路を阻まれる。
 しかし、八咫烏という霊鳥に導かれて進軍し大和国へと到着し、敵軍・長髄彦(ながすねひこ)の一軍と激戦となるも、その時、どこからともなく金色の鵄が飛来して、命の御弓の上弼に止まりて神々しい光を放つ。敵はその光に目が眩み戦意を失くして命の一軍は勝利し大和国を平定し、橿原宮で即位し初代神武帝となるのである。


 

泉州岸和田住 祭狂爺爺 記

 

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