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今回は「源平戦記 悲劇の英雄 源九郎判官義経 その参」である。一ノ谷の合戦に勝利した源氏軍ではあるが、そのあと平家打倒の戦果の上がらぬ範頼に替え、京に待機する義経に頼朝から命が下った。義経は摂津渡辺ノ津に軍を集結させ屋島へ渡ろうとしたが、瀬戸内一帯は雨風強く荒れ狂っていた。そこで、頼朝の右腕で義経の目付役として同行していた梶原景時は、義経に船の進路を変えやすくするため逆艪(前進も後退も自在に船を動かせる操舵の仕組み)
をつけるべきであると義経に主張するも義経は 「 はじめから逃げ支度をしているようでは合戦には勝てぬ 」 と激しく言い争った(義経景時逆艪争い 上図参照)。
義経はこのままでは機を逸するとの天才的ひらめきにより判断を下し、少ない軍勢を引きつれ船を進発させた。
文治元年(1185年)二月、義経は大音声を上げつつ家に火を放ち大軍勢と見せかけて屋島を奇襲した。奇襲に慌てた平家軍は陣を捨てて海上の船に逃れたが、敵をじっくり見るに思いのほかの小勢に気づき猛反撃に打って出た。そのなかに京一番の強弓である能登守教経(のりつね)は小船の舳先に立ち、義経を射抜かんものと矢を放った。大将討たせてはならじと義経の臣らは防戦したが、この折、義経股肱の忠臣で奥州より付き従ってきた佐藤継信が平家の矢に射抜かれて落馬した。そこに継信の首を取らんと菊王丸が走りよるも、させてはならじと弟・佐藤忠信は矢を放ってこれを射抜いた。
義経は継信の手をとり 「 思い残すことはないか 」 と尋ねると、 「 主君の御命に代わって討たれたと語り継がれればこの上なき誉れである
」 と言い残し息絶えたという。このあと義経は継信を手厚く葬り僧侶を呼んで供養した。
この後夕暮れを合図にいったん戦いは収まったが、平家軍は船に日の丸扇を立ててこの的を射てみよと源氏軍を挑発した。これに対し義経は那須与一に命じ、見事与一もこれを射抜いた。この妙技に浮かれた平家の男が踊りを踊るも、義経はこの男をも射殺させた。このことに源平両軍は再び小競り合いとなる。
怒った平家方悪七兵衛景清は船より汀に打って出て 「 源氏の者ども寄せ来たれ 」 と手招 きしたので、義経は 「 これを蹴散らせ
」 と命を下した。さればとて源氏軍の美尾谷十郎が駆け寄るも敵に矢を射こまれ、馬諸共倒れこんだ。十郎が逃げらんとするところ、景清に兜の錣を掴まれて引きちぎられたという(下図参照)。
屋島の合戦に敗れた平家軍は、九州めざし西へ西へ海路を逃げ行くのである。西へ向かった平家軍は長門国(山口県)は彦島に着いた。彦島は関門海峡を臨む瀬戸内制海権の西の拠点である。この彦島に幼き安徳帝を奉じて、平家一門総帥の平宗盛は帝の母建礼門院、二位の尼を伴い、三種の神器も奉じて到着した。
時に、寿永四年(1185年)四月廿四日、下関海峡の東部、赤間の浦(壇ノ浦)において、ついに源平最後の決戦の日を迎える。 陸の戦とは異なり海の戦には自信のある平家軍は背水の陣にてのぞみ、中なる勇将平教経は義経を討たんものと覚悟を決めて義経の船に近づき、義経めがけて飛びかかった。組み付かれては適わぬと義経は兵船を次から次へと飛び移った。その身軽さを見た教経は最早これまでと大手を上げ
「 我と思わんも のは近寄って教経と組んで討ちとれよ 」 と叫んだ。
しかし、だれ一人として近寄らなかった。 そこに安芸太郎実光、弟次郎、郎党三人が近づき組み付かんとするを、能登守教経まっ先に進んできた郎党を海に蹴落とし、
安芸太郎を左の脇 に弟次郎を右の脇にかいこんで海中深く身を投じたのである(義経八艘飛、教経の最期)。
また、幼い安徳帝も建礼門院、二位の尼や女官などとともに入水して海の藻屑と消え、三種の神器の宝刀も失われたといわれる。
このあと義経は平家軍の大将平宗盛父子を鎌倉に護送するも、頼朝は 「 義経に野心あり 」 として鎌倉に入るを許さず、会おうとしなかった。腰越(鎌倉市)に到着した義経は腰越より申し状『腰越状』を書き弁明するが、頼朝側近の梶原景時の讒言により許しは得られなかった。このことに泣く泣く京に戻った義経は頼朝から追われる身となり没落へと進むのである。
今回はこれまでとして、次回は「源平戦記 悲劇の英雄 源九郎判官義経 最終回」安宅の関〜義経不死伝説 をお届けする。
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