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presented by 岸和田だんじり祭振興会 

 
 祭狂爺爺がお届けするだんじりコラム。
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2004年8月号

祭狂爺爺のだんじりコラム

彫物うんちく四方山ばなし 第八話

 「源平戦記 悲劇の英雄 源九郎判官義経 その四」
(堀川の夜討〜衣川の最期

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南町 土呂幕右面
「堀川の夜討」

 平家追討の功績大なる義経は従四位・伊豫守(いよのかみ)に任じられたが、これを許さぬ兄・頼朝との不和から文治元年(1185年)十月十七日、頼朝の命により土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)をして、京は堀川にあった義経館へ襲撃を受けた。このとき義経方は静御前と家来数名であったが、かねがね土佐坊には用心せよと進言していた弁慶らの思いのほかに手強い抵抗に、土佐坊は力適わずして逃げ出してしまい、義経一行の手により捕らえられて六条河原で首を刎ねられるのである。(堀川の夜討)

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和泉市黒鳥辻小路 枡合正面
「静の舞」
  これにより頼朝・義経兄弟の不和は決定的となり、義経一行は都を落ちていくのである。一行が都をあとに大物浦で太田太郎と戦いとなり、船に乗って西国に下ろうとするも運悪く嵐に見舞われ、摂津国は住吉の浦に打ち上げられた。そのあと、一行は吉野山を越え奈良、京都を抜けて北陸路より奥州は平泉の藤原氏を頼る肝(はら)であった。吉野山では頼朝の追手に女である静御前と惜別し、静は頼朝の手に落ち鎌倉へと送られるのである。(静の舞)

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筋海町 松良左
「弁慶白紙の勧進帳を読み上げる」

 静との惜別のあと、義経らは蔵王権現の僧徒・横川覚範らの襲撃を受け、奥州藤原秀衡の家臣・佐藤元治の次男・佐藤忠信は主君義経の鎧兜を身に付け身代わりとなって凄まじい戦いをして義経を逃がすのである。危難を脱し山伏姿に身を装い奥州さして歩を進める一行は途中、義経を取り締まるために設けられた加賀国(石川県)安宅の関(あたかのせき)に差し掛かった。関守・富樫の詰問に弁慶は咄嗟に、東大寺の寄進を集めるためと白紙の勧進帳(かんじんちょう)を朗々と読み上げ無事関所を通り過ぎらんとした。そのとき、強力姿の一人が手配中の義経に似ていると呼び止められた。されば弁慶は手にしたる金剛杖をもって、したたか涙を呑んで主君義経を打ち据えた。苦衷の心中を察し全てを悟った富樫は弁慶の主君を思う心に打たれて通行を許すのである。(安宅の関・勧進帳)そして関を越えたとき、弁慶は主君を打ち据えた罪の深さに泣き崩れお詫びをするのであるが、義経はよい家来を持ったと弁慶の労をねぎらい礼を言うのである。

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「安徳天皇二位尼入水」

土生町 土呂幕正面 「武蔵坊弁慶 藤原泰衡の血戦」

 そして、文治三年(1187年)二月、義経は無事奥州平泉に辿り着いた。義経二十九歳の時であり、かつて平泉を出てから八年ぶりのことであった。藤原秀衡(ひでひら)は義経一行のために衣川のほとりに館を設け、さらには名馬百匹、鎧五十領などを贈った。これに対し秀衡の三人の子である国衡・泰衡・忠衡のひとり泰衡は不満を抱き始めていた。そのなかにあって、秀衡は病に倒れ帰らぬ人となったが、 「頼朝は義経追討にかこつけて、この陸奥(みちのく)を狙ってくるに違いない。義経殿と力をあわせ鎌倉の軍勢を討つのじゃ」 と遺言した。しかし、義経や我が兄弟に不満を抱き疑心暗鬼となった泰衡は、文治五年(1189年)二月十一日、突如として弟・忠衡の館を襲撃し討ち取った。これを知った頼朝は泰衡に使いを送り「鎌倉が力を貸すゆえ義経の首を討て。恩賞は常陸一国である」と伝えた。鎌倉の援護を得た泰衡は文治五年四月二十九日、衣川にある義経館を襲撃した。泰衡は二千の兵をもって館を囲い、これに向かうは義経ほか十数名である。それぞれ剛勇の家臣なれども、多勢の敵には適わず次々と討ち死にしていった。このなかで、荒法師武蔵坊弁慶は義経を逃がすべく暴れまわり、八方から矢を受け矢ぶすになり、最期に一矢、眉間に射たれても倒れることはなかった。弁慶は立ったまま最期を遂げていた。世に言う“弁慶の立往生”である。(弁慶の立往生)

弁慶は

六道の道のちまたで待てよ君 後れ先立つ習いありとも

との辞世を残し、このあと義経も

のちの世もまた後の世も廻り会へ染む紫の雲の上で

と辞世をしたため妻子とともに最期を遂げるのである。ときに義経三十一歳であり、戦の天才義経の若く早い最期であった。

 また伝えるに、義経最期の衣川の館には異様な影が走り、義経の体を包んで裏門をくぐり抜けたという。義経は死んだはずの愛馬羅刹に跨り、霧のかなたに消えていった。それから数年後、モンゴルではチンギス・ハンが現れ騎馬軍団を率いてヨーロッパを征服した。その戦法はなぜか九郎義経に似ていたという。その生涯に謎の多い義経であるが、悲劇の英雄として“判官びいき”という言葉も生まれ、浄瑠璃・歌舞伎・講談・落語・浪曲などに数多く登場し、民衆の支持は今なお根強く、義経不死鳥伝説も多く生まれたのである。歴史上、たいへん有名で、民衆に愛される源九郎判官義経の話でありましたが今回これまでといたします。

 

泉州岸和田住 祭狂爺爺 記

 

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