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祭狂爺爺がお届けするだんじりコラム。
祭礼の歴史や、だんじりの彫物などにまつわるよもやま話をお楽しみください。 |
バックナンバー
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| 2004年11月号 |
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彫物うんちく四方山ばなし 第九話
「太平の世に忠義を貫く四十七士」
〜その壱 艱難辛苦〜 |
| 泉州とその近辺の祭礼も終わり、季節も凌ぎやすくなってきました。これからの時期は祭り好き人にとっては、季節とともに一年のうちで静かで寂しい時期に入ってまいります。ある人はビデオを見て楽しみ、また、ある人はだんじりの曳行や彫物の写真を見て楽しむことでありましょう。
さて、今回は彫物図柄の紹介です。時代はと申しますと江戸は元禄の文化が栄える太平の世に起こった千代田の城内は松の大廊下での刃傷事件であります。季節も十一月から十二月と迫っておりまして、ネタに困ればではないのですが、「忠臣蔵」の紹介をいたします。
忠臣蔵」は播州赤穂藩主浅野内匠頭が幕府より、恒例である年賀返礼の勅使下向の饗応役を命ぜられ、その礼儀作法の教えを乞わねばならぬ指南役、吉良上野介の度重なる侮辱に怒りを爆発させ、元禄十四年(1701年)三月十四日に江戸城殿中松の大廊下において、吉良に刀を抜いて斬りつけ刃傷に及び、浅野内匠頭はその日のうちに切腹、お家は断絶となり、相手の吉良はおかまいなしという幕府の片手落ちの裁きに、浅野家臣四十七士が艱難辛苦の果てに元禄十五年十二月十四日、見事本懐を遂げるという日本人の心を揺さぶる忠義を尽くす話である。事件後、四十六年にして演劇化され「仮名手本忠臣蔵」(参照:日本芸術文化振興会H.P.)として初演されている。当時は幕府を憚って物語の登場人物も本来の名前とは置き換えられ、場所も江戸から鎌倉に、時代も江戸から足利時代に起こった事件として作られている。これから以降、歌舞伎や講談そして浪曲などいろいろな芸能に取り入れられ、外伝なども多数生まれ人気の外題となっている。
地車彫物の題材として、ポピュラーな物語のなかでは時代的には最も新しく(ごく一部に明治・大正のものもあるが)馴染みのある物語である。では、今回は「神崎与五郎箱根にて馬子に詫證文をしたためる」と「大石内蔵助吉良の間者を欺くに浪人に足蹴にさる」を紹介する。
「神崎与五郎箱根にて馬子に詫證文をしたためる」
元禄十五年三月、吉良邸討ち入りに心を逸らす江戸の同士達の苛立ちを抑えるため、内蔵助の信任篤き神崎与五郎は、内蔵助の命を受け急ぎ京を発って江戸に向かったのである。与五郎は性格が短気ゆえ京を発つ前に内蔵助より、功を成すためくれぐれも道中短慮を起こさぬようにと戒められてあった。急ぎに急いで江戸に向かう与五郎は、道中、箱根の甘酒茶屋で、咲き誇る桜の花が富士のお山の見事なたたずまいが映える景色にほっとして見とれていた。そこへ、街道一の暴れ者、丑五郎という馬子に「お侍さん、馬はどうかね」と呼びかけられた。与五郎は「馬は嫌いじゃ」とむげもなく断った。されば丑五郎「侍のくせに馬が嫌いだとはふざけるな!ただの雲助とはわけが違うぞ!」と罵り、どんと与五郎の胸を突いた。思わず与五郎、刀の柄に手がかかるが、出立前に内蔵助から戒められた言葉を思い出し、大事の前の小事、手にかければ江戸入りが遅れると堪忍し涙をのむのでのである。与五郎は地面に手をつき「許せ、わしが悪かった・・・」と頭を下げた。しかし、つけこむ丑五郎は詫證文を書けという、与五郎はいわれるままに詫證文をしたためるのである。後日、討ち入り本懐の噂が流れ、義士の中に神崎与五郎の名前があることを知った丑五郎は男泣きに泣き崩れ、それ以後、一切好きな酒を断って出家したといわれる。
(参照:甘酒茶屋)
「大石内蔵助吉良の間者を欺くに浪人に足蹴にさる」
桜花のもと、三十五歳で無念の最期を遂げた亡君の、仇討という大望を心の奥に秘める大石内蔵助は赤穂の城を明け渡して京は山科にあった。
しかし、内に意を決しているはずの内蔵助であるが、毎夜、伏見や祇園、島原と放蕩を繰り返していた。酔い潰れた内蔵助が千鳥に足を踏んでよろけて何かにつまずき、そのまま高いびきをかきはじめた。
一方、夜毎の狂態を苦々しく思っていた薩摩の浪人、村上喜剣は丁度その場に出くわした。彼は予てより内蔵助を大人物とみていたが、その腑抜けぶりをみて「噂どうりの腰抜け武士、犬畜生にも劣る大馬鹿者」と内蔵助を足蹴にし「亡君に代わって一刀両断とは思えども犬畜生を斬る刀は持たぬ」と立ち去った。喜剣の暴行に耐える内蔵助の心中は「これでよい、こうせねば吉良の間者の眼は欺けぬ」と涙をのむのである。後日、仇討本懐を知ったる喜剣は身の不明を恥じ泉岳寺は四十七士の墓前にて割腹して果てたといわれる。
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| 写真提供:雲棧堂美術院
野口写真
泉州岸和田住 祭狂爺爺 記 |
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