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presented by 岸和田だんじり祭振興会 

 
 祭狂爺爺がお届けするだんじりコラム。
 祭礼の歴史や、だんじりの彫物などにまつわるよもやま話をお楽しみください。
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2007年1月号

祭狂爺爺のだんじりコラム

今年の干支である亥(猪)に因んでの図柄

新年明けましておめでとう御座います。今年もよろしくお願い申し上げます。さて、今年は干支の廻りで申しますと亥(猪)の年で御座いますので、今回は猪に因みました図柄を三題載せる次第です。
 

雄略帝葛城山にて大猪を退治す(神話伝説)

南町 後屋根枡合左面

 雄略帝五年の春、帝が葛城山に狩猟をされたとき、急に雀ほどの尾の長い霊鳥が現れ「油断をしてはいけません」という。何事であるのかと思っていると俄に草むらの中から、大きな猪が現れお供の人達を追いまわした。
  人々は恐れて木の上に逃げた。すると大猪は真っ直ぐに帝に向って食いつこうとした。そこで帝は弓でもって大猪を突き倒し足を上げて踏み殺したという。

 

仁田四郎大猪を仕留める(富士の巻き狩り)

 日本一の霊峰、富士山の裾野において鎌倉で初めて幕府を開いた源頼朝は質実剛健を旨とし、武芸胆力を奨励することから建久四年( 1192 年)五月、大巻狩を催した。
  そして、大巻狩のある日、大猪が一頭、山下めがけ牙をむき出し、砂埃を上げ、地響きを鳴らして駆け下りてくる。如何な豪胆揃いの関東武者とてその勢いにおされて誰も手を出せずにいた。その中でただ一人、馬に乗りたる武者一人現れ、その大猪に飛び乗りて、その尾を?み、頼朝公の面前近くにて腰の刀をもって大猪を仕留めたという。名を仁田四郎忠常、音に聞こえた剛の者であった。頼朝公これを見て「狩場の功名これに勝る者なし」と称賛したという。
(画像は和泉市春木地車を掲載予定)

 

稲葉山城搦め手攻め(太閤記)

堺市八田北町 右松良
(画像は八田北町地車新調記念誌より)
 峻険な崖で、まったくの無防備である搦め手からの攻め手にまわった藤吉郎は蜂須賀小六、弟又十郎、加次田隼人、青山新介、稲田大炊、日比野六太夫らとともに間道から搦め手へ回らんとし、峰伝いに細道を登り稲葉山の後ろの牧田に出て休息した。
  その時、草木が動き一丈(約三米)ほどの大猪が土砂を蹴立てて暴れ来る。あわやと言う時に若い猟師が現れ山刀を抜き出し打ち倒した。
  藤吉郎これを見て大いに感じ入り近くに寄って名を聞けば、堀尾茂助といい、かつては父に従って信長軍を悩ませたと言う。その勇名を覚えていた藤吉郎は道案内を頼んで無事頂上に出ることができたのである。
  眼下に望む敵は藤吉郎の推測通り一人の番兵もおらなかった。藤吉郎らは塀ぎわに近づき、大木を倒して堀への架け橋とした。そして、難なく城中に忍び入った。
  そこで柴薪を積み置きたる中に、悉く火を差し入れ、飯櫃を抱えて攻め口へ兵糧を運ぶ有様で大手のほうへ急いだ。遂に大手の塀ぎわに回り、小一郎ら味方との約束どおり瓢箪を竹の先に結びつけ、塀ぎわ高く差し出し、水門の樋を引き上げ小六はここより打ち破れと味方を招き小一郎は兄の瓢箪の印を見て攻め入ったのである。

 

写真提供:野口写真

泉州岸和田住 祭狂爺爺 記

 

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