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presented by 岸和田だんじり祭振興会 

 
 祭狂爺爺がお届けするだんじりコラム。
 祭礼の歴史や、だんじりの彫物などにまつわるよもやま話をお楽しみください。
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2005年1月号

祭狂爺爺のだんじりコラム

彫物うんちく四方山ばなし 第十一話

 大坂ゆかりの戦記「難波戦記」その壱
 〜片桐木村長柄堤の訣別〜

和歌山県橋本市 東家 小連子右面(一部)
「唐子闘鷄之図」

 新年平成十七年は酉の歳を迎えまして、皆様また一歩、祭りへと近づいたのであります。昨年は世間でいろいろと事件がありまして、世相も考えさせられることが多かった中、新年そうそう相も変わりませず、祭り狂いの私は祭り、だんじりの話を書いておりまして、呑気な奴ちゃと皆様方お笑いの声が多く聞かれそうななか今年もお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。

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五軒屋町 脇障子左
「豊臣秀吉」
   さて、前回は二回「忠臣蔵」のお話でありまして、まだまだこの話のネタは尽きないのでありましたが続きはまたの機会に譲りまして、今回からは地元、大阪にかかわります物語の「難波戦記」のお話であります。 「難波戦記」はナンバセンキと読みまして、豊臣秀吉が一代で築いた豊臣家が太閤亡き後、老獪なる徳川家康の策略により遺児秀頼とその子國松、母淀殿が大坂城とともに自害して果て、豊家の血脈が絶やされるまでの経緯や合戦を事実と脚色を交えてのお話であります。
  話はかつての庶民の娯楽でありました講談・浪曲などによって広がり、大坂の庶民により大坂方を贔屓して話しを勇ましく恰好よく語られたのでありまして、日本人好みの判官びいきも相俟って、かくあって欲しいという庶民の願望も入っており、戦前なら多くの庶民が知っていて好まれた物語であります。しかし、話は飛躍しており事実と違うやないかと敬遠されるお人も多いことも事実であります。ともあれ歴史というのは勝てば官軍で勝者に都合のよいように書き換えられるところもあるのでありまして、報道網が整備されている現代とは異なり、勝者は事実を華美にして脚色したりすることもあるのであります。現代でもそうですが真実は本当はどうであったのか判らないのも事実であります。「お前ほんまにその場に居合わせたのか」というわけで、真実の解明は学者先生にお任せして、地車の彫物になる題材は史実でなくともよい、昔の庶民たちの悪政に対する批判や幸福や強さへの願望などを物語や講談・浪曲により語られる痛快さがよいのではないでしょうか。“講釈師見てきたような嘘をいい”てな調子で話を進めてまいります。

大坂夏の陣図屏風(右隻の一部)

  「難波戦記」は講談などでは「大坂合戦」とも称されまして、なかでもメインは何といっても“大坂冬の陣”“大坂夏の陣”の両戦であり、大坂への軍勢の集結は神武以来の多さであったといわれます。ときに慶長五年(1600年)九月十五日、徳川家康と石田光成の両軍は天下をかけて関ヶ原において激突し、家康はこの合戦において勝利し天下を事実上掌握したのである。 関ヶ原の合戦から三年後の慶長八年二月、家康は征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開く。 しかし、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせて豊家に恭順の姿勢を見せたりもいたしますが、慶長十年家康三男秀忠に将軍職を譲り自らは大御所と称して隠居するのであります。これにより、天下は秀頼成人ののちに返上するという大坂方の甘い期待はくだけ散るのであります。
  慶長十六年(1611年)三月、再三にわたる秀頼への上洛に難色を示す淀殿は片桐且元らの説得を受け、二条城において初めて秀頼・家康は対面をはたすのであります。このとき、家康七十歳、秀頼十九歳であり、秀頼は立派に成人した美丈夫であり、なかなか賢明な人物であったといわれます。この会見により老齢の家康は徳川の世を磐石にするため豊臣潰しを決意し、これより家康の豊臣潰しが着々と進むのであります。そこには上方ではいまだ豊臣人気が衰えず
「御所柿は独り熟して落ちにけり 木の下に居て拾う秀頼」
と落首が詠まれたほどであり、老齢の家康にとっては大きな脅威であったのでありましょう。
鐘銘の拓本(部分)
  そして、慶長十九年七月、秀頼は家康の勧めもあって京は方広寺の大仏と大仏殿再興をいたします。その落成に鐘銘に刻まれた「君臣豊楽」「国家安康」の漢文に難癖をつけ、
「秀頼が江戸に来るか、淀殿を人質にするか、さもなければ大坂を退去するかどれかを選べ」
と詰め寄ってきた。これに対し、思いも寄らぬ大坂方は片桐且元をして調停にあたらせ家康のもとに申し開きに行くも接見が叶わず日にちだけが過ぎてしまった。そこで淀殿は大野治長の母大蔵卿らをして使者を立て家康に接見を願った。されば家康これには機嫌よく接見し、難題などは露とも口にせず安心するよう申し渡して送り返します。そして、ようやく接見した且元には一転して強硬な態度を示して不首尾に終わらせます。且元はこの旨秀頼、淀殿に上奏して家康に従うよう進言した。しかし、先に大蔵卿らの報告を受けていた淀殿はこれを聞き入れず、且元は裏切り者扱いを受け大坂城を退去するのである。この大坂を去る且元と豊臣譜代の若樹桜木村長門守の別れが岸和田市宮本町地車向かって右土呂幕に刻まれており、先々代地車現岸和田市南上町地車向かって右土呂幕とともに二つだけであります。
  これにより、家康に大坂方叛意ありの口実を与え、話は冬の陣へと進むのである。

 


片桐且元 木村長門守び長柄堤の訣別

 「片桐且元 木村長門守び長柄堤の訣別」
南上町 土呂幕右面
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 太閤秀吉の子飼いの武将で賤ヶ嶽七本槍の一人片桐且元は徳川家康に方広寺の鐘銘に難癖をつけられ、難題を突きつけられた大坂方の調停役代表として家康のもとに赴き接見を願うが、なかなか聞き入れられず日にちが過ぎていった。待ち侘びる秀頼と淀殿らは大野治長の母大蔵卿らをして家康のもとへ重ねて使いを送った。すると、家康はこちら方とは機嫌よく接見し難題のことなどは申し述べず一行らを安心させて帰らせた。そのあと、且元と接見するや態度は豹変し要求を呑むべく迫ったのであった。
『桐一葉』 坪内逍遙著
明29.2 春陽堂

  大坂に帰った且元はこのことを上奏すべく登城するが、先の大蔵卿の報告とはまったく違ったため、且元の進言は聞き入れられず裏切り者として命を狙われるのである。且元は最早これまでと大坂城を出て摂津茨城の居城に退去するのであるが、今一度、且元と会い事の次第を尋ねんものと、豊臣譜代の若き木村長門守はあとを追い、長柄堤で馳せつき豊家の行く末を案じて引き止め談義をした。このとき且元は懐中より一書を取り出して手渡しこれから先は真田幸村を軍師に迎えて指揮を任せよと心中を語って長門守を諭し二人涙を流し訣別するのである。
  この話を題材にして作られた歌舞伎に明治三十七年初演の坪内逍遥作「桐一葉」があり、「わが名にちなむ庭前の、梧桐悉く揺落なし」との且元も詠嘆の声とともに豊家は破滅の一途をたどるのである。

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下野町 大連子右面(一部)


写真提供: 野口写真
井口和彰
長滝だんじり三番館


泉州岸和田住 祭狂爺爺 記

 

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