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presented by 岸和田だんじり祭振興会 

 
 祭狂爺爺がお届けするだんじりコラム。
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2005年2月号

祭狂爺爺のだんじりコラム

彫物うんちく四方山ばなし 第十二話

 大坂ゆかりの戦記「難波戦記」その弐
 大坂冬之陣〜槍摺の鎧ほか〜

春木大小路町 土呂幕正面 「今福・鴫野の戦い」

 前回は難波戦記、「片桐且元と木村長門守長堤の訣別」で終わりました。今回はその続きです。
  慶長十九年(1614)十月一日、裏切り者の汚名を受けた片桐且元は大坂城から摂津茨城の居城に退去した。この報せを受けた家康は、大坂方に謀叛ありとして東西の決戦のときは迫るのである。秀頼は秀吉恩顧の大名たちに書簡を送り、徳川と戦うよう勧誘するも、これに応えた大名はなかったのである。関ヶ原合戦以降、時代は徳川の世へと流れていたのであり、その上、福島正則、黒田長政、加藤嘉明ら秀吉恩顧の大名たちも家康に江戸より出ることを厳しく禁じられ監視されていたのである。そこで、秀頼は名だたる浪人をして大坂入城を招請する。
  そのなかで、今なお人気があり且元が長柄堤の訣別で木村長門守に「こののちは軍師に迎えて指揮を任せよ」と心中を明かした真田幸村その人がある。幸村は関ヶ原の合戦で、父昌幸とともに西軍に与して戦って敗れ、のちは、東軍に与して功績のあった実兄信幸の命乞いにより父子ともに高野山九度山に蟄居(ちっきょ)していた。父昌幸はもはや亡くなっていたが、大坂入城には嫡子・大助をともなっての入城であった。その知らせを聞いた家康は昌幸がもうこの世におらぬにもかかわらず
「大坂に籠城したのは父か子か」
と側近に尋ねたといわる。これには、かつて家康が昌幸との合戦で二度煮え湯を飲まされ惨敗しているからであり、昌幸に対しては相当恐れを抱いていたようであり、籠城したのが子である幸村であることを知って安堵したという。これでは幸村もなめられたものであるが、こののち家康はその子幸村からも相当なる危難に遭わされるのである。
  幸村は大坂に入城するや難攻不落である大坂城の唯一の弱点を補うため、南に広がる大阪平野方面の守備に「真田丸」と呼ばれる出丸を築くのである。そして、家康を震撼させる目覚しい奮戦をするのである。この奮戦ぶりは「真田三代記」のなかに大阪方武将らとともに虚実入り乱れて記されており、以降、講談などに取り入れられ庶民に馴染み深く有名な話となっていくのである。

 慶長十九年(1614)十一月十八日、東軍は大坂城包囲の布陣を完了する。十一月二十六日、冬の陣最大の激戦“鴫野・今福(現・大阪市城東区)の合戦”が始まり、大坂城東北の大和川を挟む鴫野・今福の砦をめぐり東軍は激しく鉄砲をうちかけた。鴫野では東軍上杉景勝の部隊が井上頼次や大野治長や部下山本公雄・竹田兵庫らの兵に襲いかかり、数に勝る上杉景勝の部隊は優勢となるも、大坂城から渡辺糺(ただす)・青木一重らの救援が来るや一転、苦戦となる。しかし、堀尾忠晴・丹羽長重らの応援が加わり再度逆転して東軍は勝利に終わる。
  一方、となり矢野正倫、飯田家貞らが守る今福では、東軍佐竹義宣隊が攻撃し、先鋒・渋江政光らは柵を打ち破り追撃し矢野・飯田を討ち取った。この知らせを聞いた木村長門守は大阪城を飛び出して駆けつけ佐竹勢を蹴散らした。これに対して不利と察した渋江らはやや後方に退いた。木村長門守はこの日、初陣にして勢い衰えずして深追いし、鴫野から駆けつけた上杉勢から猛射撃を浴びせられた。そこで西軍・後藤又兵衛は急遽出陣して佐竹勢は潰走し、激しい戦闘が繰り広げられるのである。上杉勢の加勢によって東軍は勝利なれども、その被害は甚大であり辛勝であったといわれる。
  また、十一月二十九日大坂城西の博労淵(現・大阪市西区)では東軍・石川忠総・蜂須賀至鎮らの攻撃に対し、これを守っていた薄田兼相は遊女屋に泊まっていて留守にしておりあっけなく奪取された。
  同じ日、豊臣氏の船倉が存在する野田・福島(現・大阪市福島区)での戦いでは、水上の備えである五分一の砦を守る大野治胤に対し東軍・九鬼守隆、向井忠勝、千賀信親らが船数十隻で回航して水面の戦いをするも、大野勢は意気地なく後退してしまった。このことで薄田・大野は“橙武者(だいだいむしゃ)”〔注:橙は正月の飾りなどに使うもので、見た目だけで役に立たないという意〕の汚名を受けることとなるのである。そして、十二月四日真田幸村の名が天下に響き渡る真田丸の戦いが始まるのである。

 それでは、大坂冬の陣からの図柄を紹介することといたしましょう。

 


九度山の真田幸村を討たんとする山本九兵衛
筋海町 見送り虹梁右面

  真田幸村・昌幸父子は関が原の合戦に破れたるも、兄信幸の功により一命を助けられ、紀州・九度山に父子ともに蟄居生活をおくって数年、この間に父と妻は亡くなり、一子大助とともに暮らしていた。
  その暮らしも常に徳川に監視され、和歌山城主・浅野但馬守は不審な動きはないものかと忍びの者、山本九兵衛をおくりこんで隙あらば討ち取ってしまおうと様子を窺っていた。すると、昼は田畑を耕し、紐を組んでいた父子は、夜になると幸村は張抜銃(はりぬきづつ)〔注:紙を重ねて張ってつくった砲〕をつくり大助は六韜(りくとう)〔注:中国の代表的な兵法書〕を読んでいる。これを見た九兵衛は後日の災いと心を定め、戸を打ち破って父子に斬りかかった。
  しかし、これは忍びを誘い出す真田父子の計略にて見事九兵衛はは生け捕られてしまう。そして、九兵衛は幸村の説得に心を動かされて真田につき従うことになるのである。この人物が講談などではこの後、霧隠才蔵となって大坂の陣で活躍することとなるのである。

 


槍摺の鎧(やりずりのよろい)
五軒屋町 土呂幕正面

  慶長十九年(1614)十一月二十一日、東西両軍布陣して対峙がつづくなか、家康は味方の士気を高めるため、東軍の各部隊の陣廻りを行い、住吉の本陣を出て住吉街道を北へと取った。そして、前内裏島まで来たとき、家康は潜伏していた幸村らの大坂勢に襲撃された。
  本陣に引き返そうとした家康は家臣大久保彦左衛門に助けられ、芦の生い茂るなかへと逃げ込んだ。あとを追ってきた幸村は芦の揺れるのに気づき揺れるところを目掛けて槍を突き入れた。このとき、大久保は家康をかばったが、三度までも家康の鎧の肩口をかすめたといわれる。
  しかし、そこに家康の旗本岩渕主税らが駆けつけてきたので幸村は大坂城へと引き返すのであった。家康はこの鎧を「槍摺の鎧」として徳川家の家宝としたといわれる。この話は講談の難波戦記のなかでは「槍摺の鎧」として演じられている。

 


木村長門守重成初陣大井何右衛門を救い出す
荒木町 土呂幕右面

  冬の陣のなかで最も激戦となった今福の戦いで、東軍・佐竹義宣勢に苦戦する大坂方を救援すべく城を出陣した弱冠二十二歳の木村長門守重成は、この日、初陣ながら散々に敵を蹴散らして一息いれていた。
  すると、参謀である大井何右衛門の姿のいないのに気づき、すぐさま馬に一鞭当てるや取って返して敵陣中を探し廻った。されば重成の勘鋭く、すぐに両股に深傷を負った何右衛門を見つけるや、わが馬に抱き乗せ帰陣せんとするを
「あれこそは木村長門守重成なり。討ち取れ!」
と敵数十騎が襲い掛かった。その時、重成少しも動ぜず
「殿、拙者を捨ててお引き上げくだされ」
と叫ぶ何右衛門を押さえ大身の槍を構える姿は威風堂々として敵を威圧した。そこへ重成の身を案じた家臣が馳せ来たので何右衛門を家臣に渡し、自らは殿(しんがり)となって縦横無尽に突きまくり見事な退陣を見せるのである。
  後日、この出来事に敵味方の区別なく「天晴れなる名将なり。部下を思いやる美しい心よ」と賞賛したという。

 


写真提供: 野口写真


泉州岸和田住 祭狂爺爺 記

 

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