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中之浜町 見送り 「大坂夏之陣」の一部
(手前左)亀田大隅守 / (中央)坂田正三郎 / (手前右)塙團右衛門 |
今月号は、大変遅くなりまして申し訳ございません。
さて今回は難波戦記のなかでも、ご存知の方も多いことでありましょう“大坂夏の陣” へと入ってまいります。
徳川方は和睦の条件などはどこ吹く風とばかりにこれを反故にし、一ヶ月あまりで難攻不落の大坂城を守る濠を埋めてしまい、城は見るも無残な裸城同然となったのであります。老獪なる家康は
「この濠埋めずして、勝ち目なし」 と思ったのでありましょう。
最近行われました大阪城の濠跡発掘調査におきましても、底を深く掘り田の字型にするなど非常に巧妙なる防御の工夫がなされていたことが判明しました。
さて、家康は慶長二十年(1615)三月になるや、「大坂方の軍備が顕著なるべし」との報告を受けます。内容は、城の外側に新しい城を築くやら、新しく浪人が増えており、また大坂城の新参浪人が京都に押し寄せ放火するとの噂が広がり京の町は混乱に陥っているなどという内容でありました。そこで、豊臣方・大野治長は家康の下に二度使者を送り弁明したほどである。その二度目の弁明に対し、家康は「秀頼が大和か伊勢への国替えに応じるか、もしくは新たに召抱えた浪人を全て追放するか」二つに一つを選ぶことを迫った。これに対し大野は最後の使者を送り、どちらの条件も呑むことのできぬことと、この要求を思いとどまることを要請するも、家康はこれを拒絶する。これにより、史上空前、神武以来の大軍勢といわれる壮絶なる大坂合戦のクライマックス“大坂夏の陣”が始まるのである。
慶長二十年四月二十六日、城外出撃と決した豊臣方は大野治長勢に筒井家旧臣を加えた二千余の軍勢で大和口を押さえるため、暗峠から大和国に侵攻し九条口・奈良口方面から徳川方・筒井正次守る郡山城に攻め入った。そこで、豊臣方は鉄砲を放ち鯨波(とき)の声を上げて城下に火をつけ焼き討ちをした。勢いに乗じた豊臣方は奈良まで進攻しようとするも、徳川方大和口主将・水野勝成らの奈良急行の風聞に進攻を取り止め、周辺の今井村を焼き討ちしようとしたが、今井村の土地の者の防戦によりこれをも果たせなかった。
逸早くこの侵攻に対応したのが、徳川方大和国二見一万石領主・松倉重政であった。重政は馬上六十余騎で押し出し、豊臣方を追撃し、逃げ遅れた者三・四人の首級を討ち取り、夏の陣の初首として気勢を揚げた。対してこの緒戦での豊臣方の戦果は余り上がらなかったのである。
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| 岸和田城 |
四月二十八日、大野治胤(はるたね)らは復讐的なる和泉・堺への出撃を敢行し、無防備なる商都堺を焼き討ちし、沖にある徳川軍の水軍・向井忠勝勢と戦い、これを後退させている。勢いに乗った豊臣方は岸和田城に迫るも、城主・小出吉英は守りを堅くし応戦しなかった。
そこで豊臣方はさらに南下を続け、樫井(大阪府泉佐野市)において和歌山から進軍してきた徳川方・浅野勢と合戦に及ぶのである。和歌山から北上する浅野長晟(ながあきら)率いる兵五千の先鋒は佐野に到り、大野治長の斥候たる家臣を捕らえこれを殺した。大坂方の進軍に浅野勢は軍師・亀田大隅守高綱の「樫井に退いて地形により戦うべし」の言葉に従い順次退却、亀田大隅自身は殿軍となった。
大坂方先鋒・岡部則綱は佐野に到ったが、すでに浅野勢は退いており、ただちに追撃しようとするも、同じく大坂方先鋒・塙團右衛門はこれを危ぶみ自ら斥候となって南下した。これに岡部は抜け駆け気味に前進したので團右衛門は怒り、どちらも先を競って突き進んだ。時に、慶長二十年四月二十九日、大坂夏の陣の序盤戦が切って落とされる。
亀田大隅守は安松の村に火を放ち、これを煙幕代わりとして銃陣を敷き豊臣方を近くまで引き寄せ一斉射撃し、怯んだ大坂軍にさらに銃撃を浴びせながら下って行き、ついに樫井で敵を迎え撃ち、白兵戦となった。そこへ浅野勢の援軍・上田宗古(箇・固)が到着し激戦となった。その結果、岡部が敗走し、冬の陣では徳川方蜂須賀軍に夜襲をかけ
“夜討の大将”と呼ばれた塙團右衛門も戦死。先祖代々の所領淡輪庄の回復をかけて戦った淡輪重政も戦死した。
先鋒の敗戦に大野治房は大坂城に引き返し、豊臣方は出端を挫かれたこととなるのである。
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