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九月、十月と二ヶ月間休みましてご無礼いたしました。今回は祭りのあとの爺爺の独り言と致しまして筆を進めてまいります。
今年の岸和田祭を見まして思いますに、パレードのときなどはコメットやクラッカーを鳴り響かせだんじりの前には垂れ幕を垂らすという、ほぼどこの町も同じ様なる演出になってますな。まっ、これが恒例化しているのですねー。あちらこちらで青年団も場を盛り上げるためにいろいろと考えているのでしょう。祭りを盛り上げて青年団員を維持していこうという狙いもあるのかもしれません。
一時に比べますと青年団の数も減ってきているようです。少子化の影響もあるでしょうし、しんどいことがいややとか青年団に馴染めないという現代っ子も増えているようです。旧市では特に過疎化で人口の高齢化が進んでいる町が多いですので、地元の人間が極端に減っているのが実情であります。おのずと他所からだんじりを曳きに来ている人が増えるわけです。すると本当に曳いているだんじりが好きで来ているのか、町に愛着を持って曳きに来ているのかは、必然的にその度合いが下がるのが現実であります。
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| 10月23日 中北町 昇魂式 |
そこで、年上の方々はわが町の歴史や町風そしてだんじりの特徴などを教えて伝えていく役目があるとおもいますね。このまま放っておくと、どこの町も同じ様になる気がします。同じでなければ安心できないようになるかもしれません。その所為でしょうかやっていることが何かしらどこの町も、またどこの地区も同じに見えてくるんですねー。かつては町々の特徴があり、あの町は垂れ幕を垂らしてクラッカーを鳴らしているけれども、うちの町は派手じゃなくシンプルに行こうとかいう個性があったように思えます。
それは他の地区でもいえることで、どこを見ていても同じなんです。かつては、地区地区それぞれ特徴がありました。掛け声にしましても、鳴り物にしましてもね。それを見に行くのが楽しみでもありました。今はどこもさほど特徴のある地区がなくなっていますのは残念でなりません。みんな右にならえではなくして個性を持って参加して欲しいですな。しかし、岸和田型の地車の分布は明らかに範囲を増やしています。それとともに、岸和田祭と同じような光景が増えております。見せる祭りにならないように、自分たちが楽しむ祭りであってほしいと願うしだいです。
しかし、曳き手の減少は深刻な問題でありますな。誰でもいいから曳かすというわけにはいけませんからね。一つの問題には岸和田祭の日が平日であることも影響しているといえます。かつては地元で働いていた方々が多くいたでしょうが、今は大阪方面や遠いところまで出勤している人も多いように思います。なかなか、祭りで休むのは苦しいところがあるようです。そこで、今、話題になっているのが祭りの日の変更なんですね。祭りの日は神社の例大祭といいまして、その神社の創立記念日のようなものなんですね。だからこの日はうちの神社の例大祭ですと神社本庁に届けて了解をもらっているわけで、毎年例大祭の日(創立記念日のようなもの)が変わるというのはおかしいわけです。
しかし、江戸から明治に変わったころにはお上からの命令で祭りの日を変えられてきたのも事実でありますが、たとえば毎年毎年その年の十月の第一土・日曜となりますと日にちも毎年変わるわけで、明治の変更とは少し意味合いが違うわけです。だから、今、変更された地区では例大祭は決められた日にやって、地車の宮入式を十月の第一または第二土・日曜などに執り行っているようです。爺爺としては祭りの日は変えて欲しくないというのが本音であるわけですが、先述のことを考えますと、このままでは祭り自体の曳き手にも影響を及ぼしますし、祭りに参加したいけれども仕事(家庭)のことを考えると参加できない人が増えてくるように思えます。今の現状を見まして皆さん方はいかがお考えでしょうか?
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| 10月23日 中北町 昇魂式 |
さて十月二十三日中北町地車の昇魂式がありました。来年度は地車が新調されるためですが、この地車は昭和三十二年に大工棟梁天野藤一、彫物責任者木下舜次郎により新調されたもので約五十年にわたり中北町で思い出を作り愛されてきた地車であります。
正面土呂幕彫物、「石川五右衛門 千鳥の香炉盗り」はこの地車ただ一台の図柄であり特徴でもあります。天野藤一棟梁が地元隣の町のためにと屋根に隅をかけた地車で大変安定感のある地車に製作されている。これは「先代の地車はよく横転し傾いて家にもたれたんや、せやさかい今度は土台の幅を広く取ってもろて安定感を持たしたんや」と当時世話人をしてられた中北町の古老の話を思い出します。また、土呂幕正面の図柄は先述のものとは別に、「慶安太平記」からとられた図柄である可能性もあることを付記しまして、図柄の説明はまたの機会に譲りまして、今月号はこれにて失礼申し上げます。 |