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祭狂爺爺がお届けするだんじりコラム。
祭礼の歴史や、だんじりの彫物などにまつわるよもやま話をお楽しみください。 |
バックナンバー
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| 2006年2月号 |
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彫物うんちく四方山ばなし 第十六話
「太閤記 〜秀吉出世物語〜」 その壱
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今回から“彫物うんちく四方山ばなし”といたしまして、「太閤記」の図柄を見ながら話を進めて参りたいと思います。
「太閤記」はご存知のとおり百姓から身を起こし、松下加兵衛、織田信長に仕え立身出世をしていき最後には天下をとって関白にまで登りつめ、関白の位も譲って太閤になったという豊臣秀吉の出世物語である。太閤となりし人物は数あれども、太閤といえば豊臣秀吉を指すようにまでなった出世人であります。
秀吉の誕生から順次彫物の写真を見ながら図柄を見てゆきたいと思います。それでは最初に秀吉の誕生から見てゆきましょう。
「日吉丸誕生」
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中之濱町 後連子 「日吉丸誕生」
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一代で出世を重ね太閤まで登りつめたる秀吉は、天文五年(1536年)丙申の年正月元日に、家の上方より霊星現れて輝き尾張の国は愛知郡中村の夫婦弥助・なかとの間に生まれたといわれる。
なかは男の子がほしいと日吉権現に祈り効験あってか、ある夜、日輪が懐に入る夢を見て懐妊したという。なんとその子は生まれながらにして歯が生えていたといわれ、十三ヶ月も腹の中にいたという。また顔は猿にそっくりであったという。
幼名を日吉丸、後の太閤秀吉誕生の場である 一代で大きな出世なした人はその出生も尋常ではないようですな。ほかの方の出世話の誕生でもいろいろと、尋常ではない出生が見受けられます。幼いころの日吉丸は大変腕白であったという。しかし才能があり利口であったといわれ、これを見抜いた両親はお寺に預けるのですが・・・。
「日吉丸 光明寺を騒がす」
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中之濱町 後連子 「光明寺」
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日吉丸は生まれながらにして歯が生えており、顔は猿に似ていることから、猿之助と呼ばれていた。しかし、父弥助と母なか夫婦は我子ながら才能ただならぬものを見抜き、せめて智徳を積んで僧侶にでもなって欲しいと願う。そして、日吉丸八歳の時、尾張国にある光明寺に徒弟に出すのであった。
しかし、僧侶を嫌い学問には目もくれず、近くの子供を集めて竹を持たせて戦ごっこばかりをするので、他の僧侶たちは密かに日吉丸を追い出そうとした。これを聞いた日吉丸は大いに怒り、幼い法師を打擲し器物を割り、経巻を乱し本尊を打ち砕き首をも落す悪行をしたのでとうとう親元に帰されてしまった。
帰された日吉丸は清洲の従弟源左衛門という商人に奉公に出されたれどもどこも長く勤まらなかった。そんなある日、木綿針の商いをしながら・・・。
「矢作橋の出会い」
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中之濱町 後連子 「矢矧橋」
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そんなある日、木綿針の商いをしながら旅を続け三河国は岡崎(愛知県南部)城下の矢作橋(やはぎばし)で転寝をしていると野武士一行が通りかかり日吉丸の頭を蹴って行き過ぎた。
されば日吉丸、「無礼者!われ幼きといえども汝らに辱めを受けるいわれはない」とくってかかった。これに野武士は日吉丸の利発さと度胸に感じ入り一行の仲間として手下に入れたという。後には、秀吉の家臣となる蜂須賀小六と秀吉との出会いの一幕である。
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| 熊取町大宮 小屋根正面枡合 「矢矧橋」 |
小六と出会いその仲間となっていた日吉丸であるが、母なかは日吉丸が長松の商家を出て一年になれども風の便りも聞こえないので、昼夜案じて暮らしていた。父弥助は思う子細あって日吉丸の行方も尋ねなかった。母なかの思い煩う様子を案じた清洲の従弟源左衛門はその居所を探し回った。そして日吉丸に出会い小六の元にいることを聞きて驚き、彼は強盗の張本人なりと自分の家に連れ帰った。
しかし連れ帰った源左衛門は日吉丸の今までの行状にどこの宮仕えにも末永く勤まるまいと暫くは自分の家においてあったが、ここに多賀の社、観音院の順光坊という僧が諸国の大名諸士の家の御祈祷札を配布しているが、その伴の下僕が病に伏していて、人を求めんと捜していた。源左衛門は幸いなりと日吉丸をその下僕とさせて東国へ下った。
そして遠州浜名に着き、松下加兵衛尉幸綱の家に宿した。松下は今川一家の武道の師にて用いられていたが、幸綱は順光坊の召し連れたる日吉丸をみて奇童なり思いなして松下の家にとどめた。ここで成人となった日吉丸は名を中村藤吉郎と改め初陣の高名を上げるのである。
「藤吉郎富士川の初陣」
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池尻町 後屋根枡合 「藤吉郎 富士川之初陣」
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弘治三年(1557年)春、北條氏政・氏直父子は二万五千の大軍を率いて駿河国(静岡県)に攻め入り、今川義元はこれを迎え討つべく富士川に対峙した。
北條軍の勇将伊藤日向守は五千余騎に下知して川を渡らんとするを、今川軍先陣朝比奈備中守は三千余騎四手に分け伏兵をもって迎撃しこれを破った。この時、藤吉郎は義元の家臣松下加兵衛幸綱の手勢なるも出陣の折、手勢に加わるを許されなかった。しかし、藤吉郎一人隠れて戦場に行き初陣の高名を上げらんものと、あちこちと伺い回っていた時、日向守ただ一騎にて藤吉郎の眼前に現れたので、「よき敵なり」討ち取ってやろう槍を取り直して、槍で突いてかかった。馬は驚き跳ね上がり日向守は「下郎下がれ」と大喝一声して体勢を立て直し二、三合槍を合わすも藤吉郎馬の太腹めがけて突き入れれば馬は棒立ちとなってどうと真逆様に落馬した。藤吉郎はすかさず首を討ち取って藤吉郎の初陣高名となるのである。
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| 写真提供:山本也寸志
井口和彰
カメラ.アイ
泉州岸和田住 祭狂爺爺 記 |
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