今回は前回に引き続いて「太閤記」であります。秀吉はその優れた頭脳と行動力で次々と出世を重ね、家臣を持つようになってゆくのである。
「清洲城割普請」
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| 堺市八田北町 主屋根枡合左 |
信長が居城・清洲城の城塀がある時、地震により百間ばかりが崩れ落ちた。そこで信長公は山口九郎治郎に普請奉行を命じて作事に取り掛かったが、二十余日をしても完成を見なかった。この時、藤吉郎は
「この戦国の世にあって、城塀崩れしままに二十余日を費やすとは近国の強敵来襲すれば何とする。危なきことかな」と呟いた。されば、信長公これを耳にし、「これ小猿、お前に数日せずして城塀修理のはかりごとあるのか」と問うた。すると、すかさず藤吉郎「私が奉行となれば三日のうちに完成いたします。」と答えた。
そして、信長の命が下るや五百の人夫と銭二百貫文を願い出て、まず一日目にはゆっくりと酒や食事をさせて休養をとらせ、次の日からは百間の塀を十に区分して十の班に分けて割普請(わりぶしん)となして、早く完成した班には褒美を取らせるとして競わせた。途中、山口九郎治郎の謀計あれども見事三日で工事を完成させた。検分に出向いた信長公は甚だ感じ入り、藤吉郎の器量を知るとともに褒美として百貫文の加増を与えたという。
「長短槍試合」
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| 堺市八田北町 主屋根枡合正面 |
永禄三年(1560年)春正月十五日、織田家の家臣が皆登城し式日の祝詞を信長公に言上した。この時、信長公すこぶる気色麗しく、数刻酒宴を催した。すると信長公は諸士にむかって「槍の柄は長きに利ありや、短きにと利ありや」と尋ねられた。このとき槍術にて当家に仕官する上島主水(うえしまもんど)は「槍は短きをもって利あり」と申し述べた。信長公は長柄の槍を好み給えば、秀吉すかさずしゃしゃり出て「槍は長きに利ありて、短きにはその能無し」申し述べた。烈火に怒った上島と秀吉の争論に信長公は百人の足軽を上島と秀吉に分け与え槍術調練を申し渡し「稽古熟せば、われも見物すべし」と座を立たれた。
さて、上島は柴田勝家を訪ね、秀吉は巧みな弁舌をもって織田家を落としいれようとしており是非槍の真剣勝負をさせて欲しいと申し述べた。勝家もかねがね秀吉の態度を快く思っていなかったので上島の申し出を信長公に言上した。信長は秀吉の手練は及ぶまいと躊躇したが、話を聞いた秀吉は試合を受けてたった。手に汗握る柴田ら家臣の面前で秀吉が負ければ上島の組したとなり、上島が負ければ秀吉の組したになること約束して戦った。
秀吉上段に構え飛びかかり早業にて飛び違い稲妻のごとくに突きいれば、上島は眼眩みて槍打ち落とされ秀吉に一突きに突き伏せられた。信長公は扇を開き「秀吉勝ったり」と誉め給いた。負けた上島は秀吉の凡人ならずを知り約束通り組下になった。秀吉は上島を斉藤家の臣・宇留馬城主大沢次郎左衛門の弟であるという素性を見抜いてのことであった。
「稲葉山城搦め手攻め」
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| 堺市八田北町 松良右 |
峻険な崖で、まったくの無防備である搦め手からの攻め手にまわった藤吉郎は蜂須賀小六、弟又十郎、加次田隼人、青山新介、稲田大炊、日比野六太夫らとともに間道から搦め手へ回らんとし、峰伝いに細道を登り稲葉山の後ろの牧田に出て休息した。
その時、草木が動き一丈(約三米)ほどの大猪が土砂を蹴立てて暴れ来る。あわやと言う時に若い猟師が現れ山刀を抜き出し打ち倒した。藤吉郎これを見て大いに感じ入り近くに寄って名を聞けば、堀尾茂助といい、かつては父に従って信長軍を悩ませたと言う。その勇名をを覚えていた藤吉郎は道案内を頼んで無事頂上に出ることができたのである。
眼下に望む敵は藤吉郎の推測通り一人の番兵もおらなかった。藤吉郎らは塀ぎわに近づき、大木を倒して堀への架け橋とした。そして、難なく城中に忍び入った。そこで柴薪を積み置きたる中に、悉く火を差し入れ、飯櫃を抱えて攻め口へ兵糧を運ぶ有様で大手のほうへ急いだ。遂に大手の塀ぎわに回り、小一郎ら味方との約束どおり瓢箪を竹の先に結びつけ、塀ぎわ高く差し出し、水門の樋を引き上げ小六はここより打ち破れと味方を招き小一郎は兄の瓢箪の印を見て攻め入ったのである。
「虎之助墨俣城へ初出仕」
加藤虎之助は尾張国中村に住まいする鍛冶屋五郎助の一男で藤吉郎の母方のまた従弟であった。それゆえ、虎之助の父と藤吉郎の母は親しい従弟であった。藤吉郎は墨俣に城を築きその城主となりしとき、父母親族を城に招いた。この時、虎之助十三歳にして生来剛勇大胆で小さきことにはこだわらず、常に藤吉郎を羨み如何しても武家に仕え、勇ましき働きをなさんものと願っておった。よって墨俣より藤吉郎の招きを嬉しく思った。そこで虎之助は藤吉郎の招きに従って墨俣に趣いたが、虎之助の性質は勇にして直なるゆえに城中にとどめ、竹中半兵衛を師として軍学や剣術を学ばせた。すると、虎之助の才知は群に秀でて竹中もこれを讃えて感嘆することが度々であったという。
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