今回は秀吉出世物語の第四回目である。秀吉は家臣を得て次々と戦での功績を重ね出世していくのであるが、戦は未だにやむことなく日々合戦に明け暮れるのであった。
主君信長に中国攻めを命ぜられた秀吉は天正十年五月、備中高山城を攻めたのである。この合戦の最中、秀吉の運命を左右する異変が生じる。明智光秀による主君信長への謀反である、この本能寺の変により時は風雲急を告げるのである。
「高松城水攻め」
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| 今木町 縁葛左面 『中国大返し 高松城主宗治の最期』 |
信長に中国攻めを命ぜられた秀吉は天正十年五月、備中高山城(岡山市)を囲み、毛利方清水宗治を攻めた。地の利を考えた秀吉は平城である城に長堤を築き、足守川を堰き止めて水攻めとした。季節は梅雨時と重なり周囲は水浸しとなって湖水化してしまう。そこへ毛利輝元らが来援し、両軍対峙したまま日を重ねたので秀吉は信長に戦況を報告した。すると信長は明智光秀をして後詰を命じたが、京は本能寺において信長は光秀の謀反によりたおれるのであった。
報せを聞いた秀吉は逸早く城主宗治の切腹を条件に和睦し、世に言う「中国大返し」をして東上する。
「中国大返し」をして逸早く東上せんとする秀吉は、これを捕まえようとする光秀により尼崎あたりにおいて危難にあう。「尼崎危難の場」として彫物に登場する。
「秀吉馬に鞭当て四王天の追撃を躱す」
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| 筋海町 縁葛左面 |
天正十年(1582年)六月二日早朝、天下統一を狙う織田信長は本能寺で明智光秀に討たれ、中国攻めをしていた秀吉はこの報を聞くや素早く敵将毛利氏と和睦をなして主君の弔い合戦をするべく世に有名な疾風怒涛の中国大返しをやってのける。一方才智の優れた光秀は最早天下に恐れる者は秀吉しかあるまいと家臣の四王天(しおでん)但馬守、明石義太夫の両人を呼んで尼崎、西宮の間に伏兵として百姓の格好をさせて忍ばせ、秀吉の来るを待った。
すると、秀吉は馬をとばしてやって来た。あわれ秀吉は四王天・明石はじめ伏兵に囲まれ風前の灯火となった。しかし秀吉は、この危難から逃れる方法を考えるに、南に続く一筋の道には敵勢五、六人しかいないのに気づき、馬に鞭当て駆け出した。
四王天は「この道は一本道で行き当たりは廣徳寺である。どうせ逃れることはできまい。私が追い駆けて生け捕りにする」と駆け出した。秀吉は四王天一人勢い込んで追い駆けてくるのを見るや、馬からひらりと下りて轡を今来た道に向け、力を込めて馬に鞭を当てた。されば、馬は驚き一本の道をまっしぐらに四王天向かい走り出した。これによって秀吉は廣徳寺に入って難を逃れるのである。
「栖賢寺にて茶坊主に化け難を逃れる秀吉」
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筋海町 縁葛正面
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四王天は馬を躱すことができず、怒って泥田に馬を投げ入れ尚も追撃してくる。秀吉は廣徳寺に逃げ込んだものの小さな寺ゆえ隠れる場所がなく、向かいの栖賢寺に飛び込んだ。そして湯殿に坊さんたちと一緒に入っていた。
すると、四王天は駆け込んできて方々捜している様子なので、秀吉は棚の上の剃刀で信長公のお弔いのためと頭を丸め坊主に化けて台所に行き「私も手伝いましょう」と他の国から来た坊さんの様に皆と一緒に味噌を摺っていた。さすがの四王天もこれには気づかず秀吉はまたも難を逃れたのである。このあと四王天は秀吉の後を追ってきた加藤清正と組打ちとなって打たれてしまうのである。
「百姓太郎助秀吉に瓜献上す」
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筋海町 縁葛右面
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難を逃れた秀吉に尼崎や近郷の人々が帰還の喜びに思い思いの祝いの品を持って秀吉を慰めに来た。その中に、高井田村の百姓太郎助は
「信長公には不意のできごとにて残念でした。弔い合戦のためはるばる中国から来られたことを承り、嬉しさの余り瓜を残らず切って参りました。何卒、一つずつなりともお召し上がり下さい」
と瓜を山積みにしたので秀吉はたいそう喜んだ。そして、四方を見廻し
「先年、信長公が本願寺攻めの折、一時敗れて危険となった。そのとき、太郎助の家に隠れて難を逃れられた。そのあと、恩賞を受けた太郎助はそのご恩を忘れずに、遠い所はるばると来てくれた。また、瓜も残らず切って来たと言う、これは明智の一党を悉く討ち取り、亡君に手向ける前兆に違いない、各々この瓜を食し勇んで出陣するがよい」
と檄を飛ばした。
このあと天正六年六月十三日、山崎の合戦で秀吉軍は光秀軍を破り、光秀は六月十三日深更、再挙を計ろうと城を脱出したが、小来栖で農民の槍に突かれて命を落すのである。
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