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presented by 岸和田だんじり祭振興会 

 
 祭狂爺爺がお届けするだんじりコラム。
 祭礼の歴史や、だんじりの彫物などにまつわるよもやま話をお楽しみください。
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2006年6月号

祭狂爺爺のだんじりコラム

彫物うんちく四方山ばなし 第二十話
 「太閤記 〜秀吉出世物語〜」 その五

 

 今回は「太閤記〜秀吉出世物語〜」のその五である。
  信長が光秀によって倒され、時は風雲急を告げるなか、その弔い合戦で光秀を破った秀吉であった。秀吉は織田家の跡目を決めるに際して清洲会議がもたれると、会議を有利に運び、信長の葬儀に際しても対抗する織田家宿老の柴田勝家の一歩、先を行くのであった。そして、両雄はその実権をかけて熾烈な戦いを始めるのである。そして、賤ヶ嶽の合戦から越前は北ノ庄落城へと織田家宿老の猛将勝家は露と消えていくのである。



「清洲会議」

堺市八田北町 見送り虹梁正面
 
 本能寺の変により信長が光秀に討たれ、天正十年(1582年)六月十三日、その弔い合戦である山崎の合戦で光秀を下した秀吉は、六月二十七日織田家跡目決定の会議のため清洲城へと登城する。
  織田家重臣の柴田勝家は信長三男信孝を主君へ立てようとするも、秀吉は嫡孫三法師を立てて争った。これに対し、諸将は秀吉に賛同して跡目争いは決着する。そこで秀吉は吉日を選んで諸将を集め玩具にて三法師の機嫌を取って自ら抱きかかえ高座に立った。柴田勝家以下一同、仕方なくも平伏なして挨拶する。まさに、秀吉に平伏する恰好となったのである。ここに秀吉は見事知略でもってその主権を手中に収めたのである。


「秀吉屈辱を忍ぶ」

堺市八田北町 見送り虹梁右面
 
 清洲会議で三法師が跡目と決まり、実権を握った秀吉のことを快く思わぬ柴田勝家は秀吉を何とか怒らせて斬ってしまおうという謀略を考えていた。
  さて跡目が決まり各諸将は帰国を前にして勝家を会して酒宴となっていた。このとき、勝家は大酔した体ををして秀吉に按摩を所望した。居並ぶ周囲の諸将はまことに失礼なることとは思えども、当の秀吉本人は顔色一つ変じず、所望どおり勝家の按摩をして屈辱を忍ぶのである。天下人ともならんとする秀吉の利口で忍耐強い一面を見せる一幕である。
 


大徳寺焼香の場

貝塚市三ツ松 土呂幕左面
 
 秀吉が光秀を山崎の合戦で打ち破った弔い合戦のあと清洲会議で僅か三歳の嫡孫三法師が織田家相続と決定した。時に天正十年十月十五日、京都は紫野大徳寺において信長の葬儀が盛大に行われた。
  前田玄以奉書紙に記された焼香の順列を読み上げようとしたところ、柴田勝家は大音にて「亡君の弔い合戦に勲功在りし信孝卿はやはや焼香あるべし、勝家付き添い奉らん」と信孝卿の膝を押したて出でようとす。しかし北畠の重臣星崎長門守は「信孝卿は暫く待たれよ。信雄卿こそ亡君の次男なればいざいざご焼香あるべし」という。
  しかしその時、左の方の幔幕の内より「信雄、信孝焼香暫く待たれい。羽柴四位少将秀吉見参」と寺中に響く大音声があった。衣冠束帯に身をただし、幕引き絞り三法師を抱いて悠然と秀吉が現れた。秀吉両眼かっと見開き「不幸の信雄、信孝、不忠の勝家、一益、世継ぎの君三法師未だ焼香相済まぬ内に霊前に近づき非礼の振る舞い尾籠なるぞ、控えたまえ」威圧的な秀吉の言葉に信雄、信孝も形無しとなり、勝家怒髪逆立て、佐久間盛政らが「無礼なり!秀吉」と立とうとするが左右を守護する秀吉の家臣は近寄れば斬らんとばかりに柄に手をかけ乗り出した。寺の周りは周到に秀吉の兵が固めてある。
  秀吉は「重い勅命を頭に頂き、非礼・非義の汝らの罪をただすものなり。申し訳ありや否や」とただし、三法師を抱きて悠然と焼香するのである。
 
 

「佐久間玄蕃允盛政秀吉本陣を襲う」

大手町 土呂幕正面

 織田信長は明智光秀の謀反により京の本能寺に討たれ、光秀はその弔合戦たる山崎の合戦でいち早く京に戻った秀吉に破れた。優位に立った秀吉は跡目相続で三法師を立てて実権を握り織田家宿老の一人柴田勝家と対立する。
  天正十一年( 1583 年)四月、両者は北近江は賤ヶ獄(滋賀県伊香郡余呉町・木ノ本町)にて勝敗を決すべく合戦となる。合戦の中、秀吉は織田信孝らの攻撃に岐阜は大垣に出張り、その留守に佐久間盛政は勝家に進言して自ら大岩山砦を陥落させた。報せを受けた秀吉は大垣よりの十三里を疾風の大返しで駆け戻り大逆襲に躍り出る。
  勢い物凄い秀吉勢に佐久間勢は勝家に援軍を頼みて敗走する途中、は三千の兵を率いた柴田勝久の援軍が到着する。玄蕃悦びて今一度引き返さんとするも勝久諫めて退却せんとす。されば玄蕃「この敗軍の責任は我一人にあり、何の面目あって帰れよう。今一度戦い潔く討死せん」と駆け行かば、勝久「我もともに討死せん」と討ち込んだ。
  されば、小高い丘に見ゆるは千成瓢箪の馬印、鬼の玄蕃は只一騎手薄なりし秀吉本陣へと乗り込んだ。このあと玄蕃は秀吉の威光に圧倒され手勢も戻ってきたので無念ながらも引き戻る。

 

写真提供: 野口写真
井口和彰


泉州岸和田住 祭狂爺爺 記

 

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