今回は「太閤記〜秀吉出世物語〜」最終回である。 秀吉は賤ヶ嶽の合戦を経て、織田家の宿老である柴田勝家を越前は北ノ庄落城へと追い込み滅ぼすのである。これにより秀吉は名実とともに織田信長の後を受け継ぐ天下の覇者となる。そして、位は関白まで昇進し、最後は太政大臣にまで登り詰め太閤となる。その間、全国は統一されるが野心は国外へと広がり、朝鮮出兵をして戦は続くのである。
そういう最中、国内では絢爛豪華な北野の大茶会や醍醐の花見が行われるのである。そして秀吉は、晩年に誕生した秀頼を残して波乱万丈の生涯を、慶長三年(1598年)八月十八日、伏見城において幕を閉じることになる。
辞世の句「つゆとおち 露と消えにし 我が身かな なにわのことは ゆめのまたゆめ」と残して。
「北野大茶会」
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| 五軒屋町 主屋根枡合後面 |
天正十五年(1587年)十月一日、秀吉は北野の松原にて数奇者(風流人・茶人)を集めて茶の湯を催した。秀吉は洛中・奈良・堺に高札を立て身分の上下なく参加することを呼びかけ空前絶後の大茶の湯となった。秀吉は自らの点前で客をもてなした後、近習を連れてあちらこちらと見回りに出た。そこに、五十ばかりの法師で樹の枝に一つの瓢箪をかけ炭釜の煙の立ち上がるのがあった。
秀吉はこの道に通ずる者と見てとり「茶はあるか」と問うた。去れば、法師謹んで樹上にかけし瓢箪から麦焦がしをふり出し、美しい天目茶碗に白湯を点じて捧げた。秀吉はこれまた一つの茶味なりと誉め給ふたという。この北野の大茶会は秀吉が九州平定から凱旋した後の威勢の強大さを示すためであったものともいわれる。
「山城の大地震」
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| 堺市八田北町 後屋根枡合左面 |
文禄五年(1596年)閏七月二日、天俄かに掻き曇り、大風ひとしきりに吹き来り、人々はこれを奇怪のことと思ったが、そのとき、山城・近江・丹波・河内・摂津の国々おびただしく地震し、太閤秀吉のいます伏見のお城も塀・矢倉悉く崩れてしまった。いわゆる山城の大地震(慶長の大地震)である。
その被害は洛中洛外の寺社、家屋など、山岳は崩れ大石転びて巨木を砕く勢いであったという。
その折、伏見のお城にいまだ大名・小名たち誰ひとり馳せ参じぬところにいち早く加藤清正が家臣を引き連れ主君秀吉の身を案じて伏見城に馳せつけた。清正は第一次の朝鮮出兵で武勲を立てたが、かねてより気性の合わぬ石田光成の弁佞(べんねい)によりしばらく謹慎の身にあって御前を遠ざけられていたのであった。このときは日ごろ気の合わぬ、松の丸殿や幸蔵主なども地獄に地蔵菩薩の出現なりと喜び、秀吉もその忠誠に感じ入ってその怒りを解いたという。
「秀吉関白祝賀の宴」
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堺市八田北町 縁葛正面
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紀州根来攻めが終わったころの天正十三年(1585年)豊臣秀長の軍三万の軍勢は淡路洲本の地へ豊臣秀次の軍三万も淡路西海岸に上陸して合流し、阿波の土佐泊に上陸した。同時に蜂須賀・黒田・宇喜多の軍三万は讃岐屋島に小早川・吉川・毛利の三万の軍は伊予新居浜に着き、四国の長曽我部元親を攻めるべく十二万の軍が三方より進軍した。
元親は四万の軍を率いて抗戦すれども新手の入れ替え入れ替えの攻撃に降参した。
時にこの年七月十一日秀吉は関白に任ぜられその祝賀の大宴が執り行われ遠近の大小の村長や社寺の神職、僧徒そして大坂、堺の町人まで酒肴を賜った。このとき土佐一国の領主に安堵された長曽我部元親は次男親和を連れ初めて大坂に参勤して秀吉に拝謁し、小袖十重・白銀千両・一文字の太刀一振を献上した。これに秀吉は黄金百枚を与えた。秀吉は早々の上洛にご機嫌宜しく同席の吉川元春、小早川隆景らと酒を数献酌み交わし黄金の間に呼び入れられ、千利休が点じる茶を味わい、またその席には堺の刀鞘師曾呂利(そろり)新左衛門も同席したという。
「上様のお耳を嗅ぐ」
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| 堺市八田北町 脇障子物見(右) |
天正十三年(1585年)七月十一日、秀吉は関白に任ぜられた。この喜びに大宴をを催し、かずかずの諸国からの献上の品々に殊に秀吉ご機嫌麗しかった。ここに堺の刀鞘師の名人で天性滑稽にして狂歌秀句をよくし、太閤に寵愛を受けている面白話の上手な曾呂利新左衛門という男がいた。
秀吉公ご寵愛の松が枯れたので秀吉公快からず思っていたところ、曾呂利これを見て「ご秘蔵の常盤の松は枯れにけり おのが齢を君にゆづりて」と祝したので秀吉は、「よくこそ祝した黄金をとらせよ」と仰せられた。曾呂利、謹んで有難きしあわせと申すも、恐れながら只今御金を拝領するより、日毎に御君の耳を嗅がせて欲しいと申し上げれば、秀吉おかしく思ったが望みにまかした。
それより後、諸国大小名お目見えのときは必ず曾呂利は秀吉公のそばにありてお耳を嗅いだ。されば大小名わが身の悪口でも言われてはせぬかと、そっと金銀を曾呂利に贈った。秀吉はこれを聞き曾呂利の悪事と知りつつその行為におかしく大笑いされたという。
「曾呂利新左衛門瓢から駒」
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| 堺市八田北町 脇障子物見(左) |
太閤秀吉は瓢箪を好み沢山に所蔵している。ある時、大名から見事な瓢箪が献上された。喜んだ秀吉は曾呂利新左衛門を呼び「見事な瓢箪じゃ酒なら如何ほど入るか。予はいろいろ集めておるが、これほど見事なものは未だないぞ。まことに珍しいものである。そこで新左衛門、昔から瓢箪から駒と聞くが、駒を出す瓢箪はまだまだ大きいのであろうの」と突然のお尋ねに新左衛門は面食らってしまった。駒とは馬のことである。「左様ですな画を見ますと仙人が小脇に抱えた瓢箪から駒を出しますればさほど大きくはないと存じます」と答えた。「そうかされば出してみよ」と言われて頗る困りながらもお受けした。「されば呪いをしますればしばらく瓢箪を拝借いたします」と瓢箪を抱えて心左衛門何か祈念をして口を前に向けて力を込めて振り下げた。されば中より将棋の駒が三個勢いよく飛び出し唐紙に三ヶ所穴をあけた。新左衛門遥かに下って、「駒勢いのための無礼をいたしました」と申し述べたので太閤秀吉はご立腹にもならず苦笑したと言う。
「醍醐の花見」
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| 五軒屋町 主屋根枡合右面 |
天下人豊臣秀吉は朝鮮出兵で苦戦が強いられる中、慶長三年(1598年)三月十五日、わが世の春を謳歌するがごとく、伏見の居城近くの醍醐寺において北の政所・淀殿・愛児秀頼をはじめ諸大名らと贅を尽くした絢爛たる大花見に興じていた。この趣向は一ヶ月も前より醍醐寺に申し渡して計画されており太閤秀吉は大変に楽しみにしていたことが伺える。
「恋しくて今日こそ深雪花ざかり 眺めに飽かじいくとせの春」と歌を詠み上機嫌であったという。
しかし、秀吉はこの後の五月頃から病床につくようになり、八月十八日「露と落ち露と消えにしわが身かな なにわのことも夢のまたゆめ」と辞世の句を残して六十三歳の生涯を閉じ、この醍醐の花見は天下人太閤秀吉の最後の盛大な饗宴となったのである。
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